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過去の解釈は自分で決めればいい

どんな人の人生にも思い出したくない嫌な過去があると思うのね。だけどそれは、他人と比べられるものじゃないのね。同じような経験をしていても、受けた心の傷は人によって違う。ときどき、他人が引きずっている過去を「そんなものは自分と比べたら大したことがない」なんて評する人がいるけど。それが励ましのつもりでも、他人の過去を当人でもないのにどうこう言うのは、感受性の違いはあれど、残酷だし鈍感過ぎると思うのね。それに、過去ってはた目からは分からないでしょ。重くつらい過去を引きずっている人ほどそれを見せないように頑張っていたりする。いつも笑顔で悩みなんか1つも無さそうな、何にも考えてないような能天気に見える人に限って、他人には言えない深刻な過去を抱えていたりするの。自分の過去を語ったところで他人に理解出来るはずもないという絶望感。あるいは、心が成熟しているから、自分の過去で他人に変に気をつかって欲しくないという気遣いがあるのね。

私はずっと、仕事とか仕方のないものは別として、せめてプライベートの自分で自由に選べる人間関係の「質」にはわがままでありなよと、厳選してこだわるんだよと言って来たのね。では、どういう人と一緒にいると良いのか具体的に説明するときは、あなたの過去の傷に触れない人を選びなよって言って来たのね。それはそのまま、わざわざあなたの過去の傷に触れるような人と一緒にいるのはやめなよって言うこと。だけど悲しいけど、自分の自由意思で選んだ人間関係のはずが、思い出したくない過去をわざわざ掘り返すような人を選んでしまう方が多いの。
「おまえは昔こんなことを言っていたのに、今はこんなことを言っている。おかしいじゃないか」みたいな言い方をする人もそう。自分のことは棚に上げて、他人の過去と今現在との整合性をやたらに厳しく求める人といたら、過去の呪縛から逃れられないのは当然の話。そうやって日々、陰湿に繰り返される精神的には大ハズレの身近な人の意地悪な言動が、忘れられるはずの過去を忘れなくさせ、過去に留まらせ、立ち直れるはずの心を立ち直れなくさせているのね。心の傷の快復をずっと遅らせているのね。悪循環なのね。
どんなにつらくて困難な過去も、あなたにとって必要だから訪れたのです。
みたいな言葉もよく聞くけどね、それで勇気づけられたり癒される人はそれでいいけどね、私はそれはいくらなんでも都合が良過ぎじゃないかな・・・というか、残酷過ぎるなあと思っているの。だって、そもそも過去って人によって違うんだし、過去に受けた悲しみも痛みも他人が意味付けすることなんて出来ないからね。一緒くたにして、全ての過去は必要な経験だったなんて、それで救われない人が大勢いますよって歯がゆく感じているのね。

だから、私はこう言いたいの。
過去の解釈は自分で決めればいいんだよ。
過去にどんな意味があったかは自分で決めればいいんだよ。
そして、もしもあんなクソみたいな人間に騙された過去、タイムマシンがあったら今すぐ戻ってぶん殴ってやりたいような過去に、過去の解釈や意味に今も苦しんでいるなら、あの過去は私にとって必要が無かった最低最悪な過去だったと結論付けてしまっていいよって、言いたいの。
過去が楽しかったからって、今が楽しいわけじゃない。過去が苦しかったからって、今も苦しいと決まっているわけじゃない。
昔の、過去の死ぬほど苦しかった時期を、懐かしそうに嬉しそうに語る今を生きる人がいる。あの当時を思い出すと今でも発狂してしまうから、心の中のアルバムは全て捨て去った人もいる。全部が正解。それでいいと思うの。
そして、他人や周りが何を言おうと、あなたにとって居心地の良い、リラックス出来る人といることで、過ぎ去った過去の解釈は、他の誰のものでもないあなたの人生にふさわしいかたちに移り変わっていくと願っています。

私を必要としてくださる方にもっと近くで言葉をおくれないか、寄り添えないかと考えてnoteを始めました。これからも心を軽く出来ますように、心をこめて発信していきたいと思っております。時には期待に応えられないような内容もあるかもしれませんが、どうか温かく見守っていただけたら嬉しいです