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まさかの100M走 ショートショート

まさか、こんな不幸に見舞われることになるとは、昨日の俺は知る由もなかった。

いや、気付いていないだけで、何かしら由はあったのかもしれない。

もし、今過去へタイムスリップできるとしたら、昨日へ戻り、一日中その由を探すだろう。

何が悪かったんだろうか。

街中で、重そうな荷物を持っているおばあちゃんを見て見ぬふりをしたからだろうか。

練習後に遊んでいて、靴紐が切れてしまったからだろうか。

昼の練習中、蜘蛛をつぶしてしまっていたのだろうか。

知らないうちに黒猫を視界にいれていたのだろうか。

ご飯をてんこ盛りにしたからだろうか。

でも、練習で疲れていたんだからしょうがないじゃないか。

今日の大会のために、毎日走りこんできて、やっと100M走入賞を狙えるところまで来たというのに。

まさか、大会へ行く道中で事故に遭うことになるとは。

車で送ってくれるといった、親の提案を断ったからだろうか。

両親の良心を。
こんな時でも俺はこんなことが言えるのか。
頼もしい。

こんなことを自分の中で言い続け、やっと自分の心を保てている。

医者からは、全治6か月との宣告を受けた。

早急に手術をしなければならなかった。
数日後、俺は骨折した骨を固定するために脚にボルトを入れた。

入院中はやることもなく、というか、何をやる気もわいてこなかったため、最初の一週間はぼーっとテレビを見ていることしかできなかった。

心が回復してきてからは、少しずつ上半身のトレーニングを始めた。
でも、走れるようになるには短くても半年がかかるという事実が、背中を引っ張っていた。

ある日、テレビをつけたまま漫画を読んでいると、耳に飛び込んできたニュース。

世界的に有名な陸上選手が相次いで失踪しているらしい。

その時、俺の脳裏にあの日の出来事がよぎった。

これまでどこかに埋もれていた、事故に遭う直前の記憶。
実際は埋もれていたのではなく、自分から見える場所にあったのだが、まさか現実だったとは思っていなかった。

事故のショックで気を失ったときに見た夢だとばかり思っていた。

あの日、大会に向かう途中、信号待ちをする車の中の人間と不自然に目が合った。

その車の、後ろの席で眠っていたのは、確かにタイソン・ゲイだった。

彼の走りを参考にして、何度も顔を見てきたのだから見間違えるはずはない。

でも、さすがに夢だと思い込んでいた。
事故に遭い、もう走れなくなったと気づいた自分の深層心理が生み出した不吉な夢だと。

だとすると、これは失踪事件ではなく、誘拐事件なのかもしれない。

でも、誘拐して眠らせている人間を後部座席に座らせていたのはなぜだろう。

映画やドラマならトランクに載せるのが常識ではないだろうか。

これは映画やドラマじゃないから、

そんな、どこかで聴いたことのあるフレーズが頭に浮かんだ。

まさか。

ニュースに映る「相次いで」という言葉。

まさか、トランクに載らなかった、、、

そこまでで自分の想像にとてつもない恐怖を感じ、首を振った。

首を振る中で、自分が事故に遭ったという事実と、その直前に見たあの事実が一瞬リンクしてしまった。

まさか。

だが、首を振り続けていたからだろう。
そのリンクは一瞬にして分裂した。


その日からも、変わらず入院生活を送っていたのだが、ある日、用を足して手を洗っていると、隣に見知った顔があることに気付いた。

北高の斎藤だ。

中学のころから、僕とタイムを競っていて、毎回どちらかがぎりぎり入賞するというような、世間的には微妙なレベルだが、僕にとっては一番のライバルだった。

え?こいつも入院してたのか。

家族や友人がお見舞いに来る中で、斎藤も、あの日の大会には出場していなかったらしいというのは聞いていたが、友人によると、俺が出場できないというのを知って辞退したのではないかということだったのだ。

今考えると確かにばかばかしいが、あの時の自分は怪我のショックで頭が回っていなかった。

まさか、こいつも事故、、、?

車いすに座る僕の横で、松葉づえをつき、上から見下ろしてくる彼の右足には大きなギプスがはまっていた。

フィールド上のライバルも、外では陸上を愛する同志だ。

今では、同じ屋根の下で生活する仲間だ。

意を決して、彼に声をかけたところ、トラックの上では敵意むき出しの彼も、とても愛想の良い人間であることが分かった。

それから僕らは意気投合し、入院中よく一緒にいた。

話している中で、彼が事故に遭ったのは、あの大会の前日だということが分かった。

何度も尋ねようとしたのだが、事故の直前、あの車を見かけたのかなぜだか聞く勇気が俺にはなかった。
得体のしれない恐怖が顔をのぞかせていた。

時がたち、脚も徐々に回復し、やっと車いすを手放す時が来た。

車いすを降り、下半身のリハビリも行えるようになってからは、自分の中で次の大会への意気込みも強まっていった。

一人ではここまで立ち直ることはできなかったのかもしれない。

斎藤が一緒にいてくれたから、モチベーションを取り戻し、ここまで歩いてくることができた。

その斎藤はというと、俺より早くリハビリを始めているのにもかかわらず、彼の左足にはまだギプスがはめられている。

それからは足を慣らしていくために毎日のリハビリと、上半身のトレーニングを欠かさず行い、斎藤とともに高校最後の大会への士気を高めていった。

そして時は流れ、大きな手術などもなく無事迎えた退院の日。

斎藤は一足先に下界に戻っていたため、俺は一人でシャバへ出てきた。

数か月後の大会へ向け、歩き出した。


大会当日。俺たちのレースが終ったとき、会場はかつてないほどの盛り上がりを見せていた。

まさか、国内の、それも高校生の大会で、これまでの世界記録と歴代2位となる記録が同時に出るとは。

昨日まで誰がそんなことを思っただろうか。

会場は熱気に包まれ、

俺たちは表彰台の上で、たくさんのフラッシュに囲まれた。

世界記録タイの9.58という記録を打ち出し、真ん中に立つ俺は、右隣の9.69を出した斎藤を、少しだけ見下ろしながら小声で尋ねた。

「お前、まさか。」

斎藤は笑みを浮かべながら、悔しさのこもった声で答えた。

「ああ、俺は手術でブレイクを。まさか負けるとはな。」


いつか、タイソンを入れたライバルが現れるかもしれない。


いや、まさかな。

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