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#122たまに調べると、武士のことも面白い。

 普段は地域社会史、特に地域の人々の営みをみることが多いのですが、今回は武士の話をしてみたいと思います。
 今回、ちょっと内職で家系について記している史料を読んで欲しいという依頼を受けました。紀州藩の武士の家系のものでしたが、今まで接したことの無い史料です。これまでの自身の経験では、せいぜい紀州藩に関わることでしたら、青木直己『幕末単身赴任下級武士の食日記』(NHK出版、2005年12月)を読んだことがあるくらいです。物珍しさもあり、史料を読んでみようという気になりました。

 史料は和歌山県立文書館に所蔵されている「紀州家中系譜並に親類書書上げ」という史料のマイクロフィルムの紙焼きでした。こちらは『紀州家中系譜並に親類書書上げ』という書名で資料目録が発刊されているようでしたが、手近な公共図書館では収蔵しているところも無く、依頼者も内容がどうしても知りたいとのことでしたので、文字を翻刻していきました。
 何せこちらが紀州藩の内部の事情が全く判らないので、とにかく史料を読んでみて、そこから判ることについて何らかの書籍などで依頼主に紹介するという方法をとりました。
 史料を読んでいて、どうもこの書式は見たことがあるぞ、と気づいたのですが、こちらの史料は成立が寛政八年(一七九六)以降に成立したものだそうで、書式が『寛政重修諸家譜』と同じであることです。成立がその時期ですので、幕府へ提出した『寛政重修諸家譜』の書式に基づいて、藩内でも作成したのでしょう。
 また、興味深かったのは、その禄高についてです。通常武士では、家としての禄高として家禄が何石となります。もし出世した場合には加増といって、現在でいうところの昇給が行われます。今回見た史料でも、年代を経るごとに出世した場合にはそれまでの家禄になにがしかの石高が加増されていました。例えば五〇〇石の家禄に対して、出世した場合に一〇〇石を加増する、という記載があります。この場合、家禄が六〇〇石になります。代替わりの際には、問題がない限りはそのまま家禄が引き継がれます。しかし、史料上では、当主の病死などによる代替わりの際はそのままの石高が引き継がれますが、当主が健在の場合での代替わりの際には、新しい当主にこれだけを引き継がせ、以前の当主を隠居とし、隠居料としてこれだけを引き継がせる、というように、分割相続をさせるようにしていました。先に挙げた例では、家の家禄としては六〇〇石を所有しているけれども、新しい当主に五〇〇石を相続させ、前の当主に一〇〇石を隠居料として与える、となっており、家としての家禄は合計して変わらないようになっていました。もちろん前の当主が亡くなった際には、隠居料分も当主に戻されて家禄としては変わりません。
 もう一つ面白かった事実として、「足米」という用語がたびたび登場しました。誰それが奉行をしていたが、その後を襲って奉行に就任した、その際に足米としていくら渡す、といった内容です。この「足米」という用語ですが、どうやら人材として能力があるけれども、就任する役職に家禄として不相応だった場合に支給されているようです。この制度、どこかで聞いたことがあるなと思いましたが、徳川吉宗が享保の改革で行った「足高の制」と同じように見受けられます。「足高の制」は享保の改革の中で行われた新たな仕組みで、有能な人材でも就任する役職に家禄として不相応だった場合には、その役職の就任期間に追加で支給する禄で、今で言うと役職手当に近いものでしょうか。どうやら紀州藩は徳川吉宗の時代以前から、藩として「足米」という名称で「足高の制」を行っていたようです。そのため、吉宗が紀州藩主から徳川宗家へ入って、将軍を継承した時にも、分不相応でも能力がある者を登用できるではないか、ということで、この制度を用いたのではないか、と思い、大変興味深かったです。武士の社会については知らないことが多いので、他の藩の状況などは知らないので、他の藩でも普遍的に行って入うことかどうかは判らないです。しかし、和歌山独特の習慣だとしたら、それが幕府へ影響したと言えるのではないでしょうか。
 武士の世界については非常に不案内な著者ですが、少し史料を読んだだけでこれだけ面白そうな事実に突き当たったので、知らないことというのは世の中にはまだ五万とあるのだなと思わされました。ほとんど武士の史料は読んできませんでしたが、食わず嫌いはいけませんね(笑)。

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