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#035お化け屋敷は覚えているか?、あるいは地域史研究への道のりー論文執筆、落穂ひろい

 今回は史料調査にまつわる論文作成についてのお話です。とは言いながらも、どういう風にして研究の方向性が変わったかを具体的な例を挙げながら、どういうところに興味を持って地域史研究に鞍替えしたかをご紹介いたします。非常に若気の至りというところもありますので、少々恥ずかしくもありますが、どなたかの何かのお役に立つことがあれば幸いです。今回のお話の基になっているのは、以前にnoteでも紹介している自分の論文の題材になっている大阪府出身議員の顕彰碑建設についてになります。


 筆者が中学生の頃、冬場の体育の授業時間に、学校の外周をランニングさせられるコースが決まっていたのですが、そのランニングコースのいくつめかのコーナーに大きな石碑がありました。当時はそれが何なのかは全く知りませんでした。また、筆者の中学生の頃は、非常に学校が荒れているころで、いわゆる不良と呼ばれた人たちが変形の学生服を着て、煙草を吸い、あるいはもっと烈しい人達はシンナーを吸うなどの行為をしていた時代でした。そのころの不良たちは堂々と煙草を吸うと補導されてしまいますので、どこかで隠れてこっそりとその悪事をしていました。そのころの筆者の通っていた中学校の校区に、通称お化け屋敷と呼ばれていた大きな屋敷があり、その屋敷には誰も住んでいなかったため、どうやって入り込んだのかは知りませんが、そのお化け屋敷が誰にも見つからずに煙草を吸ったり出来る場所として、不良たちの恰好の溜り場になっていたようです。ここまでが筆者の中学生時代の想い出です。

 あれから20年ほど経過して、筆者も大学院を出て、仕事をしていましたが、まだ大した仕事も出来ず、修士論文を活字化した論文もそれほどの反響もなく、これから何を研究して行けばいいのか、と思い悩んでいた時期でした。修士論文は中央の政治史、制度史についてのものでしたので、史料調査はもっぱら東京の国立国会図書館や国立公文書館などでした。まだ国立国会図書館の関西館も建設中であり、また今のようにインターネットやデジタル化が進んでいない時期でしたので、史料調査と言えば東京へ行って写真を取ってくる、という方法しかなく、交通費や滞在費、撮影費用など個人で研究を続けていくには負担が大きく、さりとて自分自身にそれだけ先行投資しても評価されるものが書けるだけの腕や経験、知識もなく、今後の研究についての方向転換を考えている、というころでした。そのころに、さる学会の役員会の会合で筆者に声をかけてくれる先輩研究者があり、山のような史料があるので調査を手伝ってみないか、何だったらそれを使って論文を書いてもらってもいい、というお誘いがあり、その史料がどういうものかも知らないのに、方向転換を検討していた筆者は渡りに船だと、一つ返事でお引き受けすることにしました。それまでも地域史料については、数年間ずっと仕事として調査もしていましたので、調査対象を変更すること自体には抵抗がなく、新に引き受けた史料調査についても、日々楽しく、仕事と勉強を兼ねて調査を進めていました。
 1年くらい経過したところで、そろそろ何か成果を出さないと、と思い、1本論文を書いてみることにしました。しかし、修士論文の際の苦労から、何か難しいことを書かないといけないという思い込みがあり、かなりアクロバティックな論点のものを今から思えば書いていたのだと思います。恩師から修正の意見を得ようと掲載前に事前に読んでもらったのですが、その評価は「世間に公表する価値なし」。もう茫然自失です。この論文はお蔵入りにし、それからしばらくは史料調査を続けているだけ、という状態になってしまいました。しかし、これでこの商売が嫌になるという訳ではなく、調査自体は日々新たな発見があり、面白いことが判る、という状態でしたので調査と史料にのめり込んでいくようになりました。そうやって過ごしているうちに、この史料調査を紹介してくれた先輩研究者から、自分が面白いと思えることで世間に公表されていないことをとことんやることに意味があるのではないか、読んでも判らないような難しいことをすることだけが研究じゃない、理屈先行ではなくて大量に史料があるんだからそこから湧き上がるイメージを大事にした研究をすればいいんじゃないか、という、まあ史料の面白さ中心主義とでも言うのでしょうか、そういうことを日々に雑談の中で教わっていき、段々と、この死蔵されている史料を世間に知ってもらえるような何かを書けるようになれればいいかな、というぼんやりとした方向転換のイメージが出来るようになっていきました。

 ある時、調査を終えて自宅に帰ろうとしていたところ、ふと、自分の通っていた中学校近くの石碑(つまり先の第何コーナーかにあった石碑です)に目をやりました。それを見て、これは今調査している史料の人物のものじゃないか、と驚きました。全く知らなかったとはいえ、その場で驚いて碑文を筆写し、その石碑関連のことを調べにかかりました。すると、中学校近くの不良の隠れ家だった屋敷がその人物の屋敷であったことや、石碑の除幕式の記念写真があること、大阪朝日新聞に除幕式の記事があることなどが次々と明らかになりました。この記念碑は、地元の道路や堤防などのインフラ整備に尽力した人物の顕彰碑であることなど、碑文からこの人物のこともいろいろと判ってきました。地域と開発といったテーマで、この人物の石碑について、もうこれは書くしかない、という気になってきました。が、もう一押し、決定的な決め手に欠ける。新聞や写真、石碑はあるけれども、決定的なそれそのものを記した古文書がない。そのまま書いても少しぼんやりした内容になりかねないなぁ…と、史料調査を進めていると、「石碑建設一件」という一袋の史料が出てきました。袋の中身を確認すると、建設場所の選定方法や、費用はいくらかかったのか、などなどが書かれてある史料が一括で残っていました。この瞬間に「我が事、成れり」と、成算が立ったわけです。ここからは先は、それぞれの史料を読んで、どんな内容でどういう位置づけになるのかを見ていき、立論のどの部分に使えるのかを考えていくわけですが、それについては実際に書かれたものお読みいただければと思います。

 ここでは、その論文作成の裏話、論文では書けなかったことを紹介しておきます。石碑は元水害頻発地に設置されます。具体的には、水害をなくすことを企図して川を付け替えることを行うのですが、その際に、元の河川の土地が不要な土地になる訳です。その不要となった場所に10年ほど後に石碑が建設されます。元河川の土地は地域の共有地ですので、勝手には石碑をたてることは出来ない。当時は墓地埋葬規則という法律に則り、墓や石碑を立てる時には警察に届出をしないといけませんでしたので、警察に手続きをしてから石碑を建設します。石碑には、わざわざ四国から仙台石といわれる薄く加工しやすい石を購入しています(注1)。土地、石材と結構な費用を費やしますが、これは寄附金などを募って費用を集めています。石碑が完成した後に、盛大に除幕式が行われており、除幕式後にその顕彰された人物からお礼を兼ねて屋敷で除幕式列席者に対して園遊会が催されました。そこでは出店や、仕出しの食事、持ち帰り用のお土産などのさまざまな食事が供され、それらはお礼としてこの家の持ち出しで行われていました。顕彰される側もされるに任せるだけではなく、きちんとお礼、お返しを用意しないといけないということがよく判ります。さらにその後に村に対してその顕彰された人物からお金が渡されます。その金額は土地購入費に相当する額です。ここまで見て来て、一瞬、では自分で石碑を建ててくれと事前に頼んでたかのように受け取れるか、と筆者は思いました。しかし、自分から働き掛けている様子は全くなく、そうするとこれは、いわゆる英国貴族などにある「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」に当るのではないか、と。高貴な者にはそれなりの責任が伴う、持てる場合は持てない者に対して出さないといけない、という、村の名士としての責任から土地代に相当する金額を渡して、寄附者に対して還付したのではないか。そのように解釈出来るのではないか、と筆者は考えました。
 これに関連する話として、もう一つ例を挙げることが出来ます。この時期のどの地域でも、税金として現在でいうところの所得税を、戸数割税と累進課税の二つの方法で徴収することで、村の税金が構成されていました。この地域では、戸数割税の支払い構成が面白いことになっており、例えば村の戸数を一〇〇軒と仮定すると、戸数割税の約六割をこの人物が支払っています。もちろん家は一軒しかありません。なのに六〇軒分相当額を支払う。その他、約三割を約三分の一の家が支払い、残り三分の一の家は負担額〇円になっています。つまり富裕層である村の名士が約六割を負担し、一般家庭に相当する家が相応に支払い、村の三分の一ほどの経済的に苦しい家は支払い免除になっている。まさしく先の「ノブレス・オブリージュ」と言えるでしょう。

 こういう人物ですので、ご子孫からの聞き取りではありますが、面白い逸話が残っています。ある時、土地購入を不動産屋から2つ持ちかけられ、どちらがいいか迷っているところ、いずれか場所は不明ですが勝海舟に会う機会があり、彼に相談したそうです。それぞれの土地の条件を勝が聞いてきたので、片方は川べりで水害の多い地域で、地域住民の収入は安定しない場所であること、もう1箇所は近日中に鉄道の駅が出来るところで、今後地価が上がる見込みのあるところであることを伝えます。すると、勝からは、その条件だとおのずとどちらを買うべきかは判るじゃないか、自らの利益のためではなく、苦しんでいる人たちを助けなさい、とアドバイスを受け、川べりの水害の多い土地を購入して、地域の人々のために尽力したそうです。ご子孫の方からは、駅になる土地を購入していれば今ごろ左団扇だったのに、と笑いながら、この話を語ってくれました。
 勝海舟の話(注2)は、史料が今のところ見当たらないので、どのくらい信憑性のある話かは不明ではありますが、先の石碑建設地の還付や戸数割税の件なども思い合わせると、この人物ならそういう判断をしそうだな、というように筆者は感じました。

 この論文をきっかけに、筆者は地域史研究に鞍替えをしたのですが、この時に取り扱ったのは、地域に埋もれるような、全国的には無名の人物ではあるものの、全国津々浦々にこのような人たちが埋もれているのでしょう。地味なことではありますが、こういうまだ見ぬ地域の事象、人物を掘り起こして光を当てていくということに、「自分しか知らない事実」という鉱脈を探し当てるというワクワク感があるからこそ、多少苦しくても恐らくやめられないのでしょう。

(注1)仙台石:稲井石、井内石と一般的に呼ばれる石材で、宮城県石巻市稲井地区が産地。詳細は下記リンクへ。史料には四国から船で運ぶさまが記されています。当時は四国が産地の石かと思っていましたが、石材店の在庫が四国のどちらかにあった、と考える方が妥当ではないかと現在は考えています。

(注2)勝海舟:勝海舟とのかかわりは聞取りのため、詳細は判りませんが、まるっきり付き合いがない人物というわけではなく、貴族院議員をしている時に東京の勝の家を訪ねており、この人物はその際に書をいただいています。その書の箱書きの記載と、この人物の日記の記載が一致するので、その書が当該のものであることが確認できます。なお、現在、江戸東京博物館から勝海舟の日記の翻刻が順次発刊されています。現在で6巻になりますが、まだ明治8年までしかたどり着いていない状態です。現在発刊分では、この論文の人物との関係は見えませんが、今後に日記の続刊が発刊されることで、さらに詳細なことが明らかになるかもしれません。下記のリンクから、現在の発刊状況が確認できます。


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