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#041アメニモマケズ、シセキヲメグル?ー身近な史跡、文化財の楽しみ方(7)

 今回は執筆に係る調査について。

 基本的に一度も行ったことの無い場所のことや、子孫を訪ねたことの無い人物についてというのは、不器用なもので書けないのですが、場所や人物について真摯に向き合う手法として、いつも現地調査、聞き取り調査を行うようにしています。今回も近現代の宗教について書かないといけないということで、現地を訪ねないと判らないこと、書けないことを書こうという意識で現地調査を計画しました。しかし、この夏はやたらと雨が多く、雨の日に現地の写真撮影をしても薄曇りで、本に掲載出来ないようなものしか撮影できないということで、この8月中はずっと日延べにしておりましたが、見事に雨ばかりで9月に突入してしまいました。これではいつまでたっても調査がs進まないということで、今回は場所の確認とプレビュー写真程度のつもりで現地を回ってみました。

 今回廻った場所は大阪府と奈良県の県境にある寺社、史跡で、十三峠、水呑地蔵院、玉祖神社の三ケ所。この三ケ所はたまたまですが、小学校時代に訪ねたことのある場所でした。筆者の通っていた小学校では、2月ごろに「耐寒山登り」という行事があり、小学校1年生で玉祖神社に、2年生で水呑地蔵尊、3年生で十三峠、4年生で屯鶴峯、5、6年生で二上山という、徐々に行程が長くなるというコースを毎年寒い中を歩かされました(4~6年生は途中まで鉄道を利用)。

 その小学校1年から3年までに行った場所に、実に40年以上振りで訪ねてみたのですが、もう全く記憶と違う場所になっていて、いや、こちらの記憶違いもあるかと思いますが、もうほぼ初見の場所のような感じでの訪問でした。まず最初に十三峠を訪ねたのですが、当時の印象でいくつもの石塔が並んでいる所に少し平らな広場があり、そこで昼食をとったという記憶があったのですが、全くそういう場所が見当たらない。道路も整備されているので、現地の風景が変わっているという可能性はありますが、信貴生駒スカイラインの開通が昭和39(1964)年ということなので、筆者が訪ねるより随分以前の話ですので、記憶違いという可能性もありますが、とにかくもう見知らぬ場所でしかありませんでした。全く昔の記憶の場所がない状態で、峠にある道標や石仏などを探したのですが、かなり往生しました。

 今回この十三峠を訪ねたのは、天理教教祖・中山みきの五女・こかん(小寒)がこの峠を越えて大阪に天理教の布教に入ったということで、記念碑があるとのネットでの情報があり、その位置確認と写真撮影を主たる目的です。まず十三塚を拝見し、写真を撮影しましたが、雨で何だか判らない写真になりました。十三塚は三田浄久『河内鑑名所記』にも「十三越峠 山の上に塚十三ありし故にいふとなり」との記載がある、少なくとも室町期には遡る塚だとのことです。写真右手が最も南の部分の塚になります。

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 その後、峠の道標と石仏を探しましたが、道標や石仏は十三塚より南側にありました。それで目的の天理教の記念碑ですが、道標と石仏の付近とのことでしたが、見渡してみましたがそれと思しきものが見当たらない。少し南側へ歩いてみると、解説板のようなものがありました。

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 この解説板には十三峠とこかんについての関わりが書かれてありましたが、これは石碑、記念碑ではない。碑(ひ、いしぶみ)というのは、何らかの目的で石の表面に文章を刻んで立てた石のことを指すため、木を用いたものでもなければ、解説を書いた看板でもない。石碑であれば、いつ、誰が何の目的で建てたものかが概ね刻まれていますので、それを元にさらに調査することが出来たのですが、目当てが外れてちょっとがっかりしました。

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 ちなみに『河内名所図会』に掲載されている図は下の写真の通りです。この『河内名所図会』は秋里籬島により書かれた江戸時代の観光ガイドブックに相当するものです。秋里はこのほかにも『都名所図会』など各地の名所図会を執筆していますが、常に現地へ足を運んでのルポを敢行し、絵師も同行してスケッチさせたということもあり、当時の最新の情報が掲載されてあることと現地でスケッチをした図が掲載されていることから、現代のわれわれの感覚で言うと写真入りの詳しいガイドブックが刊行されたようなイメージであったようで、どの名所図会も爆発的に売れたということです。下の図からは現在は道路が開通したりしてますので、同じ姿は見れないですが、当時の状況の参考までに掲げておきます。

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 気を取り直して、次の地点である水吞地蔵院に向かいます。場所は十三峠から西に少し下ったところにあります。

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 上の『河内名所図会』にも絵の左上に文章で「水飲といふあり、此霊泉清冷にして四時増減なし、ゆきへの人夏日の渇をしのぐ、其向ふに地蔵尊あり、これを水のミ地蔵といふ」(意訳:水呑というところがある。この霊泉は清く冷たく四季を通じて水量の増減が無い。旅に行きかう人は夏の日にここで給水して渇きをしのいでいる。その向こうに地蔵尊があって、これを水呑地蔵と言っている。)との記載があります。下の写真のような水が湧き出ている場所があり、弘法大師の霊水ということで現在も信仰が篤く、遠方からも水を汲みに来る方が多ようで、玉垣の奉納を見ても大阪市内などの方の名前が多い印象でした。

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 本堂の近くには展望スペースもあり、大阪平野を一望出来るようになっています。当日はあいにくの天気でしたので、下の写真のように靄がかかったような状態でした。

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 次の見学地点は玉祖神社です。

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玉祖神社は式内社で高安郡13か村の氏神です。古くは周防国から勧請され、住吉から上陸した後、恩智神社に留まった後、この地に祀られたと言われる神社です。

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 こちらも『河内名所図会』に掲載されている史跡ですが、下図中央部分に大きな樹木が描かれています。どうやらこの木が現在天然記念物に指定されているクスノキのようです。

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 こちらは水呑地蔵とは異なり、玉垣が付近の村々の名前や人名で埋め尽くされています。玉祖神社は延喜式内社で高安郡の村々の産土神として、近隣地域の信仰が篤い信仰が持たれている神社であることもあり、近隣地域からの寄附も多いのでしょう。

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 本殿横の壁面には、往年には見事であったであろう絵が書かれていたようです。剥落した跡から察するに、竹木に虎の絵が描かれていたと推察されます。

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 境内には「日露戦役記念碑」もあります。これは陸軍大将・大迫尚道(1854~1934)による揮毫のものです。裏面に建立の年月日が無かったのでいつ建てられたものか、詳細は不明です。

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 玉垣には水越、千塚、大窪、山畑、服部川、郡川など地域からの寄付金が志納されたことが判る玉垣が本殿裏に並んでいます。大阪市内などからの寄付による玉垣などが多かった水吞地蔵はより広域な信仰圏を持つ寺院であり、それと異なって近隣地域に篤い信仰圏を持つ玉祖神社との、それぞれの特徴の違いが表れているといえます。本殿正面にある一対の灯篭には「高安十一ケ村氏子中」「元禄十丁丑歳三月吉日」と刻まれているものがあります。

 玉祖神社には、摂社、末社が数多くあったので、明治時代前期に合祀されたものだと想定されます。このあたりについても公文書などで後付けしていくと、何か面白いことが判るかも知れません。

 今回は余り何も考えずに、地域の北東から攻めていきましたが、逐次順番に神社仏閣を見て回りますので、その都度何か面白いことがあれば書き綴っていきたいと思います。


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