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#075宗教施設と自由民権運動

 資料集を見ていて、時々、おっ!というような、思わぬ発見がある時があります。今回紹介するものもその一つです。なかなかご存じない話かと思いますが、明治二三年(一八九〇)に最初の衆議院議員選挙が行われており、その際の選挙規則には、神官、各宗派の僧侶、教員には被選挙権は与えられていませんでした。そのため、第一回衆議院議員選挙の際には、わざわざ還俗(僧侶を辞めて俗人に戻る)して選挙に出ている人もいました。このような形で僧侶は被選挙権の獲得運動を行い、大正時代に至ってやっと僧籍を維持しつつの被選挙権の獲得を実現しました。本願寺史料研究所の『本願寺史料研究所報』39号(二〇一〇年二月、本願寺史料研究所)に掲載の辻岡健志「僧侶から政治家へ―金尾稜厳の洋行・政界進出・議会活動―」にも一人の議員を例として、非常に判りやすく書かれています。参考までに下記にURLを記しますので、ご興味のある方はぜひ読んでみてください。

https://shiryoken.hongwanji.or.jp/project/report/pdf/syohou_39.pdf

 今回資料集で見つけた思わぬ史料は、明治一三年(一八八〇)六月の「岩倉具視宛大谷光尊書状」です。この書状には、堺県(現在の大阪府の東、南部により構成されていた県)の渋川郡久宝寺村にある顕証寺という浄土真宗の住職である近松沢含という人物が「国会開設建白書」を国に提出するために四〇〇人ほどで政治結社を結党して活動している、という内容のことが「大阪新報」という地方新聞に掲載された、とあります。史料をそのまま以下に掲載します。

拝啓、薄暑之砌益 御清栄奉恭賀候、陳者当山末堺県河内渋川郡顕証寺住職少教正近松沢含と申者、国会開設之建白致スト歟ニ而四百名カ党ヲ結ヒ云々、過日大阪新報ニ掲載有之、右ヲ御地之新聞ニ伝写有之候ニ付、当節之事ニも有之、早速右沢含(沢含者小子親族之者ニ御座候)尋問致候所、同人モ大ニ驚キ全右等ニ関係又者話等モ不致無根之事ニ御座候、依而新聞ハ迅速誤正之義申遣シ、同人者決而国会或ハ民権抔彼此論スル才力モ無之程之義ニ而、彼ニ怨重ニも有之者より投書ニも致候哉、尚国会民権云々ニ付自然御聞込之義ニも被為在候ハヽ被仰下度、注意且説諭予防之都合も御座候ニ付併而申上候、先者右申上度匆々如此御座候也
 六月九日                   大谷光尊
岩倉具視殿
(佐々木克ほか『岩倉具視関係史料』上、二〇一二年一二月、思文閣出版、明治一三年六月九日付岩倉具視宛大谷光尊書状)

 この史料によると、国会開設の建白書を出すために四〇〇名もの人を集めて党を作って、建白書を提出する見込みである、とあります。この当時は一般の地域住民が国へ願いを出す場合、建白書や請願書といった形で提出されていました。この場合は明治一三年ですので、おそらく建白書の提出先は元老院であったと考えられます。

 元老院は明治八年(一八七五)に設立された立法諮問機関です。明治六年(一八七三)に起こった明治六年政変後の政治状況の中、長州藩(現在の山口県)の代表格の政治家・木戸孝允が台湾出兵に反対して下野し、政府は薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の大久保利通一人が中心になる状況になりますが、木戸に政府へ戻ってもらいたい大久保が、明治八年(一八七五)に大阪市の北浜にある花外楼という料亭で「大阪会議」が持たれ、木戸の政府復帰の条件として、明治六年政変で下野した板垣退助を政府に戻すこと、三権分立を整えた立憲政体の樹立を政府が将来的に約束すること、という条件を大久保に飲ませ、漸次立憲政体樹立の詔という詔勅を出させて、木戸、板垣の政府復帰が実現するという出来事があります。花外楼は現在も大阪市北浜にあり、営業しています。そのHPのURLを下記に添えておきます。

 大阪会議の結果として設置された、立法機関を目指して作られたものが元老院でした。しかし、徐々に立法機関としての機能を制限されて、立法諮問機関、請願書などを受け取る機関へと機能縮小されていき、最終的には明治二三年(一八九〇)に帝国憲法の発布、衆議院、貴族院が出来た際には、貴族院の前身の組織として、その構成員が貴族院へと吸収されるとなります。この流れについては、「Important study achievements_001 ”About the member of Genrohin(the senate house in The Meiji era)”」をご参照いただければ、そちらに詳しいです。

 さて、その国会開設の請願書ですが、どうやら「大阪日報」に記事があるとのことですが、現在のところ明らかではありません。『明治建白書集成』の明治一三年の部分も確認しましたが、掲載されていませんでした。どうやら、この大谷光尊の書状によると事実無根の記事が掲載されたことのようでしたが、その新聞記事についての情報が、国の中央にいる岩倉具視の耳に入ってしまったようです。岩倉具視は、公家出身の幕末以来の政治家ですので、言うなれば保守政治家です。自由民権運動については、反対的な立場にいます。また、岩倉は明治四年(一八七一)以降、約二年間かけて岩倉使節団としてアメリカ、ヨーロッパを歴遊した経験があり、その際にフランスのパリでパリ・コミューンにより荒れ果てたパリの街の様子を直接目撃し、民主主義というのは国王を断頭台に送ったり、首都をこのように荒廃させてしまうような劇薬的な面があるということを実体験として知ったという経験の持ち主です。そのため憲法の制定や議会については非常に慎重な態度をとっていました。

 また、西本願寺は全国的に門徒(信者)の広がりのある大きな宗教団体です。そのため、門徒が自由民権運動に加担、協力する、あるいは浄土真宗の寺院が自由民権運動の拠点になる、というのは政府にとってはその運動の全国的な広がりに対して非常な脅威を感じたことでしょう。また、この記事の中にある「顕證寺」というのも大きな鍵になっていたと思います。顕證寺は西本願寺(浄土真宗本願寺派)の中本山に位置づけられる寺院です。これは、浄土真宗の中興の祖・蓮如が、本願寺を設置出来なかった時期に近江国(現在の滋賀県)近松に顕證寺を設立し、自身の子の蓮淳に住持をさせたところでその寺の名前の発祥があります。のちにの河内国渋川郡久宝寺村に西証寺を起こし、近松顕證寺から蓮淳を住持に迎え、久宝寺村の西証寺の名も顕證寺と改めています。このことから、蓮如の一門が住持を務める連枝格寺院として扱われており、幕末には顕証寺出身の大谷光威(徳如)が本願寺の門主を務めるなど、歴代門主を輩出する重要な寺院として位置づけられているのが顕證寺です。

 このような浄土真宗の中での重要寺院が自由民権運動に組するかどうかというのは、政府にとっては非常に注視するべき動向だったでしょう。そのため、大谷光尊から岩倉に宛てて慌てて釈明の手紙が出されたのでしょう。大谷光尊は近松沢含について、「民権抔彼此論スル才力モ無之程之義ニ而」と、民権などを論じることなどが出来る才力のある人物ではない、としており、何かの嫌がらせ新聞に掲載されたのであろう、としています。また、国の方で自由民権運動に対して関りが聞こえてきた場合には、注意や説諭を行うので遠慮無く言ってもらいたい、と書き添えています。

 この一点の史料のみでは大きなことは言えませんが、当時の政府、保守層にとっての浄土真宗の門徒や自由民権運動に対する評価が垣間見える、なかなか興味深い史料と言えます。明治維新では薩長土肥の下級武士たちが江戸幕府を倒すという大きな政治的成果を出しましたが、この明治前期においては政府関係者にとっては、自分たちのように既存の政府をもう一度転覆することが出来る人たちが現れてもおかしくない、と思っていたのでしょう。事実として、この後、自由党の過激派による激化事件も起こっていきますので、岩倉具視の危惧もあながち外れていたとも言えないでしょう。政府関係者にとっては、浄土真宗のような全国に広がりを持つ宗教団体は、非常に脅威を感じる団体であった、と評価していたということが言えるでしょう。

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