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#010トイレ、その鼻漏なおはなし

 以前に仕事で、江戸時代のトイレ事情について解説する機会があり、その時にいろいろと調べた中でのお話です。特筆すべき新発見などではありませんが、あちらこちらからの情報を合わせて鑑みると、いろいろな面白いことが判って来る、という雑談としてお楽しみいただければ幸いです。

 トイレは、人が大、小を排泄する施設、室内のしつらえであることは、異論のないところだと思います。現在は水洗が当たり前の時代となったトイレ。高度経済成長期以前は汲み取り式のトイレが一般的でした。勿論、江戸時代や明治時代は汲み取りが当たり前でした。室内でのトイレの始まりとしては、平安時代ごろは固定された部屋としてのトイレではなく、現在の「おまる」式の移動出来る簡易式のトイレを利用していました。後に個室のトイレが設置されるようになりますが、名称は「東司(とうす)」、「東浄(とうじょう)」、「西司(さいす)」、「西浄(さいじょう)」、「厠(かわや)」、「雪隠(せっちん)」、「はばかり」などという名称で歴史的に呼ばれてきていますし、現代では、「便所」、「手洗い」、「化粧室」などと呼ぶのが一般的でしょうか。屋内のトイレとしては、武士や寺社、公家や富裕な商人などがトイレを設置していましたし、屋外では辻々に公衆トイレや小便桶が設置ており、また、いわゆる庶民の家では家屋の外に設けられたトイレで用を足していました。それこそ百姓身分ではいわゆる野壺、肥溜めと言われるような穴に板を渡して大を、軒先の桶に小をしていました。江戸時代には、日本の都市はフランスのパリなどと比べると格段に清潔だったと言われます。それは、屋内にトイレが設置され、また公衆トイレが整備されており、汚物の回収方法が整備されていたからだと考えられます。

 今現在でも史跡や文化財の建造物などでも昔のトイレが見学できるところがあります。それらはもちろん汲み取り式のトイレです。概ねどちらの施設で昔のトイレを見学したとしても、大の個室と小の個室に分かれているのではないでしょうか。この汲み取り式のトイレ、大、小が別々に設置されていることには、単に汚物を処理するという考えで分けているだけでなく、日常生活に有効活用することを考慮して分けていました。ひと昔、ふた昔まえであれば、田んぼや畑の傍に「野壺」、「肥溜め」と言われるものがあったこをご存じの方が多かったことと思います。これらは田畑で生産している農作物へ肥料として活用するために田んぼや畑の傍に設置されていました。これら「野壺」、「肥溜め」に蓄えられていた糞尿はどこから来ていたのか、というと、当然その田畑の所有者の家庭だけでは年間の肥料を賄いきれませんので、都市や農村の各家庭から運び込まれています。都市や、あるいは地域によっては下肥汲み取りの組合があり、縄張り化、利権化しており、江戸時代にもその縄張り争い、利権争いが起こっていたという記録も残されています。それほど貴重な資産とされていた糞尿。各家庭では農家へ提供するにあたって細心の注意を払って提供していました。というのも、小は即効性の肥料として活用され、大は遅効性の肥料として活用されており、それぞれが混ざってしまうと質が下がると評価されていました。そのため、各家庭では、下肥の収集業者に自家の物を提供しますが、自宅では汚物として扱われるものが、農家では肥料としての貴重な品として扱われるため、提供する各家庭は農作物との物々交換によって大、小を提供してたいました。これは各家庭にとっては重要な副収入となっていました。そのため、大と小が混ざると交換してもらえる農作物の量が減ってしまうので、庶民にとっては大きな問題でした。

 施設そのものについても、少し触れておきましょう。現在のトイレにある便器は概ね焼き物で出来ています。歴史的に古いトイレは木製でしたが、こちらは衛生的にも不衛生で、また常時濡れていることで設備の痛みも早かったことと考えられます。江戸時代後期には、小便器として焼き物のトイレを使用し出すようです。ここであえて「焼き物」と表現しているのには理由があります。トイレは庶民のものでも江戸時代に衛生面、メンテナンスの面からも焼き物が使われていきます。板張りの下に甕をいれたものなどです。この時期にはいわゆる陶器と言われる焼き物が使用されます。明治期以降、いわゆる磁器に変わっていきます。その理由としては、磁器はガラス質で表面がつるつるしているため、拭いて清掃することが出来、清潔に保てるという利点があるためです。現在でもトイレの床や壁面への尿はねは室内清掃でも大変気になるところだと思います。現在では目に見えないウィルスなどで病気が感染するというのは当然の知識として持っていますが、昔であっても、においがする=衛生的に良くなくて病気になる、という感覚がありました。これは明治19年の日本国内でのコレラの大流行の際に、トイレの汲み取り、運搬は夜明け前に行うこと、という通達があったことからも、日中に汲み取ると気温で発酵しやすくなる=においが出る、においがきつくなる=病原菌が空気中に舞い散って感染する、という、感覚を持ち合わせていたといえるでしょう。当時は空気感染とは言っておりませんが、感覚的にくさいにおいを吸い込むと病気がうつってしまう、という経験則、感覚を持っていたと言えると思います。

 次に用の足し方について触れたいと思います。現在ではトイレは男性用、女性用と区別されているのが通常でしょう。江戸時代などは、男女と区別ではなく、大、小という区別でのみトイレがしつらえられており、下肥の分別という理由でのみの区別でした。ですので、大、小のそれぞれの個室は男女共用となっていました。そうすると、小を女性がどのようにしていたのか、つまり小便器に向かって立って用を足していたのか、というところが問題になってきます。結論的に申し上げると、女性も立って小用を足していた、ということです。どのようにしていたか、というと、着物の裾をまくり上げ、小便器に背を向けて立ってしていました。なぜこのようなことが判るかというと、次の文章から見て取れます。

「京の家々、厠の前に小便担桶ありき、女もそれへ小便をする、故に富家の女房も小便は悉く立てするなり、但良賤とも紙を用ず、妓女ばかりふところかミをもちて便所えゆくなり、月々六斎ほとづゝこの小便桶をくミに来るなり、或は供二、三人つれたる女、道はたの小便たごへ立ながら尻をむけて小便をするに恥るいろなく、笑ふ人なし」(滝沢馬琴『羇旅漫録』「八十二、女児の立小便」)
 こちらは『南総里見八犬伝』の作者、滝沢馬琴の関西へ旅に来た際の記録になります。こちらを抄訳しますと、「京都の家ではトイレの前に桶が置いてあり、女性もその桶に小用を足す。そのため、裕福な家庭でも女性はことごとく立って用を足す。ただし身分の上下を問わず、小用を足した後に紙で拭かない。遊郭の遊女などは懐に紙を入れてトイレに行く。月に6回ほど汲み取りに来る。供を2,3人連れた身分の高い女性でも道端の桶へ立ったまま桶へ尻を向けて用を足すが、特に恥じ入る様子もなければ、通りを通る人も笑う人はない。」とあります。つまり身分の上下を問わず、女性は立って用を足していたと。ここで注意しておきたいのは、滝沢馬琴がこれを記しているという点です。馬琴は江戸出身の武士階級の人物で、享和2(1796)年5月から8月にかけて関西地方を旅行しています。上記の資料はその際のものです。ということは、馬琴にとって、旅の記録に書き残すほどに「女性の立小便」は特筆すべきことだった、ということです。つまり、「江戸の女性は座って小用を足していた」ため、馬琴にとっては立って小用を足す女性の姿にカルチャー・ショックを受けて記した、といえるでしょう。

 いかがでしたでしょうか?鼻漏な話で恐縮ですが、トイレのことについて、まとまって細かな事を書いている書籍などもあまり見当たりませんので、解説のために折角調べたことですので、なかなか披露する機会も無いため、ここに記して、何かの役に立つ方がいましたら幸いです。

追記
 私が関西出身の人間のため、関西の事例を中心に記しましたが、女性の座るか立つかの小用の姿勢以外にも、関西と関東との違いがあります。先に述べた大、小の肥料としての利用についても実は差異があります。関西では、大、小ともに肥料として用いるのですが、関東では大のみを用いる、という話もあります。また、現在の集合住宅のように住人一括でトイレを使用する長屋などは、大の汲み取りで得る利益は居住者に、小の汲み取りで得る利益は大家に、という記載も見受けられます。
 またご興味のある方、反響などいただけましたら、参考文献なども追記してみてもいいかなとも思っております。



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