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#123近代はどうやって地域にやってくるのか?

 今回は、以前調査した中で体験したことを記したいと思います。
 以前、地域にある、いわゆる青年団の史料を調査したことがあります。青年団は地域の祭りなどに関わる、青少年を教育するための団体で、地域を構成する重要な要素です。
 青年団の前身として、近世の「若中」というものがあります。地域によっては「若者組」、「郷中」というところもあります。筆者が見た史料は、近世の若中のころから連綿と続く、団体の金銭出納簿でした。ここには、法被の購入や山車や提灯の修繕など、村の祭礼の際にどれだけの費用が掛かったかなどが記されており、非常に興味深い内容でした。
 この史料を見ていて非常に興味深かったのは、地域の近代化の様子が見て取れるところでした。どういうことかというと、近世の若中の費用は、金額の安いものは銭で、金額の高いものは銀で支払われていました。明治以降もこの若中は引き続き活動しておりますが、明治四年(一八七一)以降の記載でも銭と銀で支払いが行われておりました。
 明治四年に新価条例が制定され、それまでの江戸は金立て、大阪は銀立ての金銀両方を使用する近世の貨幣制度から、円・銭・厘の全国統一的な貨幣制度が運用されます(明治八年(一八七五)に「貨幣条例」に名称変更)。教科書的にはこのように記載されるのですが、実際の各地域では先の史料で見たように違っていたようです。
 今回の史料では、実に明治一〇年(一八七七)まで銀、銭でのやり取りが続いていました。これについてはいくつかの理由が考えられると思います。まず、円・銭・厘の貨幣の鋳造が追い付いていないことと世間に普及していないこと。明治四年に突然全国一斉に円・銭・厘を使用し始める訳ではないのです。当たり前と言えば当たり前ですが、各家庭の所持しているお金を銀行にでも持って行って両替をしない限り、それぞれが円・銭・厘を持ち合わせる訳はないのです。
 また、この時期特有のことと考えられるのが、政府の信用についてです。まだ江戸幕府の支配から明治新政府に政権が代わって一〇年しか経っていない時期です。一般の人々は急ごしらえで近代化していく新しい政府についての信用をしきっていないと言えるでしょう。何せ一〇年前に政権が転覆しているのをその目で見ているのですから、また今の政府が転覆する可能性がある、と見ていても不思議はありません。そのため、新たに交付された新しい通貨についても、広く流布してくるまで様子見をしていたとも考えられます。この当時の一般の人々は、それまで流通していた藩札が紙切れ同然になったことを既に経験しているので、新たな貨幣の信用を値踏みしていたといえるでしょう。
 あるいは、先の流通量との兼ね合いで、近隣に円・銭・厘が普及していないこともあり、近隣での買い物はこれまで流通していた銀や銭で事足りる、という面もあるでしょう。近世の貨幣であるからといって、突然信用がなくなるわけではなく、地域経済の元では近隣の村々、商店では、そのまま貨幣としての信用が維持されており、使用が続いてたとも言えるでしょう。
 上記のような理由から、この史料に描かれている地域では、明治一〇年に至ってもそのまま近世の貨幣を使用し続けていたといえます。
 このように、教科書では一行で済まされるような、地域の「近代化」についても、実際に史料を見てみると、その地域ごとに異なりがあり、一様に近代化がなされていくものではない、ということが見て取れます。

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