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【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】 きっとここにしかない喫茶店で(13)

第十二話はこちらです。


第十三話

 夜、ai's cafeに二つの人影があった。ミカとマスターだ。二人は店の真ん中にあるテーブルに向かい合って座っている。

 マスターに相談したいと言った手前、ミカは勇んでここまで来たものの、考え続けるうちに自分が何に苦しんでいるのか分からなくなってしまった。マスターはそんなミカの煮え切らない様子に気がついたようで、ミカの話を一旦止めた。

「ねぇ、ミカちゃん。せっかくだし、何か飲もうか。何が良い?」

「そうですね⋯⋯」

 そう問われて、ミカは自分が飲み物も決められない状態に陥っていると気づいた。

「ミカちゃん、夜でもカフェインは大丈夫だよね? エスプレッソは飲んだことある?」

「いえ、ありません。一度飲んでみたいと思っていたんです!」

 ミカはちょっとだけ元気な声を出した。

「最近エスプレッソに凝っていてね。良い豆があるからそれにしようか」

「いいですね。すごく濃そうだと思って避けていたんですけれど、大丈夫でしょうか?」

「うん。ミカちゃんたまにコーヒーを頼む時も濃い味が好きそうだし、多分大丈夫だよ」

 そう言うとマスターは席を立って、エスプレッソマシーンの方に向かった。ミカはマスターの後についていった。

 マスターはひどく真剣な顔で豆を挽きはじめた。グラインダーから小気味良い音が立って、豆が細かくなっているのがわかる。マスターは細かくなった豆をバスケットに入れてならす。丸い文鎮に取っ手がついたような器具でコーヒーの粉を固めているようだ。ミカはその様子をぼーっと見ていた。

 コーヒーの粉をならすとき、マスターの手が微かに震えているように見えたが、一瞬だったのでミカは見間違いだったかもしれないと思った。

 マスターは粉の入った容器をエスプレッソマシーンにセットして、抽出を始めた。マシーンの口は二つあるようで、小さいカップが二つ置いてある。カップの中に少しずつコーヒーが注がれていき、やがてぽたぽたと垂れるくらい出が弱くなった。その瞬間、マスターはカップを引き上げ、専用の皿に置いた。

 そしてあろうことか砂糖を取り出し、カップの大きさに対して多めの量を投入した。ミカはコーヒーに砂糖を入れるのはしばらく前に卒業していたので、訝しげな気持ちになったけれど、マスターは気にしたそぶりもなく、ミカの方を向いた。

「こちらエスプレッソになります! 騙されたと思ってグイッと飲んでみて!」

 そう言うなり、マスターは片方のカップを手に取って、くくっと飲んでしまった。ミカは先を越された気持ちになったので置いていかれないように素早くカップを持ち、口につけた。

 液が口に入ってきたとき、濃くて苦いと思った。しかし、すぐに芳醇な香りが鼻に抜け、酸味と苦味が組み合わさって強烈な旨味となった。ミカは半分ほど飲んで息をつくことにした。体が熱くなっているように感じる。微かな甘さが後を追うように意識にのぼってきて、コーヒーの苛烈さを柔らかく包んでくれる。このエスプレッソはミカがこれまでに味わったことのない種類の美味しさを持っていた。

 二口目を飲むと底に溜まっている砂糖の甘みを強く感じた。粘度が増していてよりしっかりとコーヒーの風味を感じることができる。甘みはコーヒーの味を全く邪魔せず、むしろ引き立ててくれる。思いのほか苦さを感じなかったが、それはこの甘みのおかげかもしれない。

 ミカは二口でエスプレッソを飲み切ってしまった。体はどんどん熱くなっていて、エネルギーに満ちている。とても濃密な時間を過ごしたあとのような晴れやかな気分になった。マスターを見ると、嬉しそうな顔で底に溜まった砂糖をスプーンで掬って食べていた。視線に気づいてミカにも小さいスプーンを渡してくれる。ミカは素早い動きでスプーンを受け取って、濃厚なコーヒーの味が染み込んだ砂糖を口に入れ、余韻を楽しんだ。

 そのあとミカはマスターに渡された水を飲んで息を吐いた後、テーブルに戻った。そしてエスプレッソの感想を伝えた後、マスターにこう聞かれた。

「さっきの話だけれど、ミカちゃんはタクミくんのことが気になっているんだよね?」

「はい。そうです。好きだというのは間違いないんですけれど、物足りない気持ちがあるというか⋯⋯。タクミくんのことを気になってはいても、ちょっと今までの人とは違くて、どうしたら良いのか分からないんです。」

「そっかぁ。よく分からないんだね。だけど、タクミくんといるのは楽しいんだよね?」

「そうですね。連絡が来ると気持ちが晴れやかになるし、胸がきゅんってなることも多いです」

 マスターは唇に人差し指を当てて考えている。その仕草はどこかの男によく似ていた。ミカは続ける。

「自分が何に悩んでいるのかもよく分からないんです。このまま関係を進めてしまえば良いとも思うんですけれど、すごく怖くて⋯⋯。違和感を抱き続けていて、自分が何を求めているのか分からず、不安だけが募ってしまって困りました」

「むーん。自分のことがよく分からないけれど、ミカちゃんは違和感を持っている、と」

「そうなんです。あと、タクミくんは常に一定の距離感で、踏み込んでもこないし、離れたりもしない。だけど、それが不思議で変に思っちゃいますね。迫ってもこないし⋯⋯」

 ミカは一瞬ためらいを感じたが、口は止まらなかった。

「男の子はいつも勇気を出して告白してくれたりするけれど、私はそういうことをしたことがなかったなって突然思ったんです。バレンタインでチョコを渡したことはありましたけれど、いつも決定的な出来事が起きるのをただ待っていた。相手に動いてもらうように仄めかすだけで、自分から足を踏み出したことはなかったって思ったんです。こんな気持ちが突然出てきて、自分が悪いような気もしてしまって、どうしたらよいのやら⋯⋯」

「うんうん。いつも男の子が動きを見せてくれるのを受け身で待っていたことに気がついて、よく分からない気持ちになったんだね」

「そうなんです。マスターはどう思いますか? こういう経験ありますか?」

 下を向いていたミカがマスターの顔を見ると、柔らかいが読めない表情をしていた。

「私も昔はそういうところがあったかな。だけど、ミカちゃんよりはアグレッシブだったかもしれない。この人が好きだと思うと、積極的に誘って会って、たくさん連絡とりたくなっちゃうんだよね。だけど、やっぱり最終的には男の人に踏み込んで来てほしかったかな」

「そうですよね。周りの友達もそう言っています。女友達も男友達も、大事なことは男が言うもんだって気持ちが強いみたいですね。それはそれで良いと思うんですけれど、じゃあ女の方は何もしなくても良いのかと言うとそんな気もしなくて⋯⋯」

 そう言ったきり、ミカは黙り込んでしまった。マスターも口を開くことはなく、じっとミカのことを見つめていた。

「室温がちょっと下がって来たね。暖房の温度を上げてくるからちょっと待っていてね。もう本格的に秋になったんだなぁ」

 マスターはそう言って席を立った。

 ミカは店の窓から外を見た。空には雲がひとつもなくて、星が綺麗だった。ミカはオリオン座ぐらいしか星座を知らなかったけれど、三連の煌めきが目に焼きつき、三日月もいつも以上に瞬いているように思った。

 そんな様子を眺めているとマスターが帰って来て、ゆっくりと椅子に座った後で口を開いた。

「ねぇ、ミカちゃん。ミカちゃんは自分が恋に落ちる音を聞いたことってある? 音じゃなくてもいいんだけれど、『いま自分は恋に落ちたんだ』って実感するような瞬間を味わったことはある?」

 そう言われたミカはゆっくりとマスターの方を見た。マスターの瞳は少し潤んでいて光り輝いていた。ミカはうまく言葉が出てこなかったので深く頷いた。

「私は必ず恋に落ちる音を聞いていたの。『あぁ、いま自分は恋に落ちたなぁ』って思って、恋に夢中になった。恋人に会うと天にも昇るくらいに嬉しくて、ちょっとでもうまく行かないことがあると胸がギューっとするけれど、また会えば馬鹿らしいくらいに全てが解決してしまう。それが私にとっての恋だった」

 ミカは話を聞きながら自分も似ていると思った。

「私の恋はいつもジェットコースターみたいで、幸せと苦しみの間を行き来していたんだよね。とっても刺激的で甘美なものだった」

 そう言われてみて、ミカは自分もマスターと同じように思っていたことに気がついた。マスターはささやくような小さい声で話を続ける。

「あるときにね。付き合っていた彼に結婚してくれって言われたことがあるんだ。私は飛び上がるくらいに嬉しかった。彼は素敵な人だったし、私のことを大切にしようと一生懸命な人だった。私の恋のジェットコースターはその時一番高いところに昇って、将来が楽しみで仕方なくなったの。実はね⋯⋯私はミカちゃんと同じくらいの頃に結婚したことがあるの」

 ミカは驚いて前のめりになった。

「え、マスターって既婚者だったんですか?」

 そう言ってはみたものの、そんな話を聞いたことはなかった。相手の話だって耳にしたことがない。

「三年で別れちゃったんだけどね」

 マスターはそう言いながら笑った。その笑顔は綺麗だったけれど、その分だけ切なさもあった。

「彼の結婚をその場で受け入れたんだけど、夜に一人になった時に怖い気持ちが出て来ちゃったんだ。もちろん勢いでプロポーズを受け入れたわけじゃないんだよ? 大好きだったから私も彼と結婚したかった。だけど、ゾッとしたの。自分の人生を決めるのにはあまりにも軽率に決断しちゃったんじゃないかってね。自分だけじゃなくて、相手の人生を左右することなのに、その場の勢いで決めちゃった気がして、プロポーズされたその日にマリッジブルーになっちゃったんだよね」

 マスターはちょっとだけ笑って言った。ミカはマスターの話と自分の問題に共通点があると分かっていたので、真剣に話を聞いていた。

「その時になって初めて、自分は今まで受け身だったって気がついたんだ。そういう意味ではミカちゃんは気がつくのが早くて、私は遅かった。⋯⋯それから私は頑張って考えて、『彼と一緒に幸せになるんだ』って心に決めた。結婚式をして、友達や家族に祝福されればされるほど、その覚悟の気持ちは強くなっていった。それは彼も一緒だったみたいで、本当に嬉しかった。やっぱり私は良いパートナーを見つけたって幸せな気持ちだった」

 マスターは楽しそうに話をしていた。声も弾んでいて、目尻にも愛嬌のあるシワができている。

「だけどお互いに気持ちが強すぎたのかな。彼は二人の生活をしっかりと続けるために仕事を頑張りすぎるようになった。そんな彼に喜んで欲しくて、私は家事をたくさんやって、手の込んだ料理を作るようになった。お互いに相手を思いやってした行動だったはずなのに、時間が経つにつれて噛み合わなくなっちゃってね、よく分からなかった。いつからか毎日口喧嘩をするようになって、そして毎日仲直りするようになっていった。思い通りにならないことにイライラしちゃうんだけれど、
仲直りして抱きしめ合うとすごく幸せな気持ちになるの。私はジェットコースターに乗っている感覚で、底にいる状態から楽しい気持ちがフッと湧いてきて途端に幸せになる感覚って言ったら伝わるかな?」

 マスターは目尻に涙を溜めながら静かに語っている。よく見ると彼女の手が強く握りしめられていることにミカは気がついた。

「恋人みたいでいられる夫婦になりたいと思っていたけれど、いつか私たちは恋のジェットコースターみたいな刺激を味わうために喧嘩するようになっていたんだ。
相手の話を聞くわけでもなく、ただ言い合いをして、言うことがなくなると謝りあって、それで夜を一緒に過ごすような夫婦生活に入ってしまったんだ。それがどこか間違った関係だって二人とも分かっていたんだけれどね」

「そのあとどうなったんですか?」

 ミカはうわずった声でそう聞いていた。いつの間にか手に汗をびっしょりかいていて、息も浅くなっていた。

「旅に出るって言って私が家出しちゃったの。彼もお互いに距離を取った方が良いって思っていたから許してくれて、三ヶ月帰らなかった。友達の家に泊めてもらって、喫茶店や料理屋の手伝いをさせてもらったんだぁ」

 マスターはいつもの調子をちょっとずつ取り戻して、微かに芝居がかった話し方になった。いつも能天気に見えるマスターの人生が予想以上に波乱万丈で、ミカは言葉が出なかった。

「そのあと帰ってから何度か話をして、離婚することにしたの。もちろん色々と揉めたんだけれど、結局は合意してね。口惜しい日々だったなぁ⋯⋯。それからは本気で喫茶店や定食屋の技術を学んでみたり、海外で生活してみたりしてね。その経験を活かして、いまでは元気にai's cafeのマスターをしているというわけです!」

 マスターは晴れやかな笑顔を見せた。つられてミカも笑顔になったけれど、胸は苦しかった。

 マスターは椅子に座り直し、居住まいを正してからミカの顔をまっすぐに見つめた。

「話がすこし逸れちゃったんだけれど、何が言いたかったのかっていうとね⋯⋯。恋に落ちる音を聞く必要はないってことなんだよね」

「へ?」

「ミカちゃんは恋って刺激的なものだと思っていない? 苦しいところから突然幸せになったり、不安の雲が彼の一言で晴れやかになったりするようなものが恋なんだって、無意識のうちに思っていたりしないかな? 感情の起伏が大きくなったときに恋に落ちた感覚になるんじゃないかって私は思ったんだけど、そんなことってないかな?」

 ミカはマスターの話を念頭に自分の感情を整理してみた。そしたら、マスターの言う通りだったのではないかと感じるようになった。

「もしかしたらそうかもしれないです。タクミくんといて、楽しかったけれど、恋に落ちた時のあの独特の感情の動きがなくて、これは恋じゃないかもしれないって思っていたかもしれないです」

「そういう恋から始まって、うまくいく人もたくさんいるんだろうけれどね。だけど覚えておいて欲しいことがあるの⋯⋯。音が聞こえた時だけが恋じゃないんだって。ジェットコースターに乗ったときみたいに胸が躍った時だけ恋だと思わなくてもいいんだよ? じわじわと近づいて、ただお互いを大切に思いあって、そうして成り立つ恋もこの世界にはたくさんあるんだからさ」

 マスターはどこか切なそうな顔になった。色々と思い起こすことがあるのかもしれない。

「余計なことばかり言っちゃったけれど、恋の形は人それぞれだと思ってタクミくんのことを考えてみてね。ポジティブな気持ちだけが湧く恋愛に戸惑う人は意外に多くいるみたいだから。ミカちゃんが誰かと関係を持つことに対して怖さを感じるのも、自分を大切に思えるようになったからだと私は思うよ。それは相手をちゃんと尊重することにも繋がるから」

 ミカは目を見開いて、マスターを見た。まさに自分が悩んでいた問題の確信をつくアドバイスをもらったと思えて来て、心の中が台風みたいに渦巻いていた。

「大丈夫。きっとうまくいくよ。いま直面している問題は、ミカちゃんが階段を何段ものぼったから出てきた問題なんだと思う。凪みたいに言ったら『好転している』と私は思ったの」

 それから、ミカはマスターが話してくれたことを咀嚼しながら色んなことを質問した。たくさん話をして、自分の気持ちを客観的に何度も見つめ直した。

 そしてエスプレッソをもう一度飲んだ後、店を出て電車に乗り、一時間散歩してから家に帰った。



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