#9 暴言・暴力が〝虐待〟になるとき
こんにちは、ゆきなです。
今日は少し重い話にはなるのですが、いつものように深掘りしてみます。幼少期の逆境体験(虐待・いじめ・性被害)に今も苦しめられている人はぜひ、最後まで読んでみてください。きっとなにかのお役に立てると思います。
暴言・暴力・つらい体験が『笑い話』として昇華されるときと、〝虐待〟として受けた人間の脳に深いダメージを与えるとき。
両者には一体どんな違いがあるのか。表面的ではなく、できるかぎり核心に迫ってみようと思います。
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前提条件
まずはじめに、巷でよく言われることを潰しておこうかなと思います(笑)
今回話している暴言・暴力は、大人が子どもに対してふるうものに限定しています。大人は、親だけでなく、先生・近所の人・同級生の親など全てを指しています。
世間に転がっている程度の深掘りでは意味をなさないので、今回その程度の内容は前提条件としてここに記しておきます。
暴言・暴力(とくに暴力)はいかなる理由があっても虐待にあたる → これは公的な文書やルールとして明文化されていますが、世の中には暴言・暴力があふれていますし、社会全体がそれらをなくそうという努力もしない、心がけもないため、この理屈は一旦無視します。
どんなにつらい過去も『笑い話』として昇華することは可能 → もちろん、その通りです。が、同じような暴力でもスムーズに昇華できる場合と、昇華するどころか他人に話すことすらできない、自分で認めることも苦しい場合があります。今回は、この2つの違いについて掘り下げます。
トラウマになる人の心が弱い / 被害妄想がひどいだけ → こういう意見もあると思います。たしかに、1の被害が10や100に膨れ上がってしまう人もいます。この行動が、無意識であってもわざとでも、「その人自身の欠陥」と片付けてしまうのはあまりにも乱暴で、その行為こそ、暴力に思えてしまいます。
改めまして、今回話すのは…
大人が子どもにふるう暴言・暴力
なぜ、同じ程度の暴力なのに結果が変わるのか
個人の資質の問題は考えない = 周囲の環境・関係を中心に深掘りする
以上の事柄についてです。
日常的に暴力をふるう人、そうでない人の数と質
わたしは大人からの暴力が、脳を深く傷つけるか否かは結局これに尽きると思っています。
日常的に暴力をふるう人の人数・質
そうでない人の人数・質
この2つがもっとも重要なのではないかと、実体験や周りで同じような環境にあった人をみても思います。
環境比較
たとえば… 父親がお酒を飲むと暴力的になる人だった。けれど、母親はいつも優しく、自分を気遣い守ってくれた。祖父母も同様に優しく接してくれて、暴力はおろか暴言すら吐くことはなかった。
これに学校の先生が加わったとしても、脳へのダメージはそこまで深刻なものにならないでしょう。
しかし、以下の場合は、同じような暴力でも脳へ深刻なダメージを与えるのではないでしょうか。
両親は常に無関心。日常の会話はほとんどなし。普段、自分に無関心な父親は他人の前で自分を「粗大ゴミだ」とこき下ろし、お酒を飲めば暴言・暴力をふるう。母親は、気に入らないときだけ自分を怒鳴り、不機嫌なときは自分に暴言を浴びせることでストレス発散をし、お酒を飲むと暴力をふるう。祖父母も自分には無関心で、両親も祖父母も口を開けば家族の悪口。
この状況に加えて、学校の先生からも暴言・暴力を受けたら… ダメージはより深刻なものになると思いませんか?
各種SNSで、勇気を出して逆境体験を語った人によってたかって「そのぐらいの経験は誰にでもある」「被害妄想がひどい」「大袈裟だ」みたいな批判をしているのをよく見かけますが、1つのストーリーに対して、その人のつらさや事の深刻さをわかったかのようにどうこう言うのは、あまりにもナンセンスだと私は思います。
わたしの人生を分析する
私が私の人生を分析してみると、一人ひとりの暴力はとんでもなく酷いものでもなかったと思います。もちろん、世間の常識ではあり得ないことばかりでしたし、違法な被害にもたくさん遭いました。
いじめも受け、性被害にもあい、眼も当てられないほどグロい経験もしました。それでも、一つ一つが命を失うほどの暴力ではなかったからこそ、今ここに生きていられているんだと思います。
しかし、私の周りには暴言・暴力をふるわない人があまりにも少なすぎました。助けてくれる人・庇ってくれる人・味方になってくれる人は、誰もいませんでした。無害な人はちらほらいましたが、皆、見て見ぬふり。その無害な人たちは直接暴力をふるってこないだけで、私がつらい状況にあることを知りながらも、たくさんのことを押し付けてくる人たちでした。
たった1人の子どもに、それも2才、3才の子どもに、大人たちが、機嫌の理由と責任・人生がうまくいかない理由と責任・物事がうまくいかない理由と責任… 数えきれない理由と責任を押し付ける、そんな環境で育ち、積み重なったダメージは、脳も身体も壊す結果を招きました。
高校1年生になってすぐ、ストレスで髪の色が抜け顔周りの髪色が金髪になりました。日本語の文字が読めなくなり、倒れる直前には日本語がなにひとつわからなくなっていました。話すことも、理解することもできていませんでした。
そうこうしている間に、、、突然意識を失い、昏睡状態に陥りました。
高校1年生の夏頃だったと思います。そこから約3ヶ月間、意識のない日々が続きました。今思えばこれは、あきらめ症候群だったと思います。
めちゃくちゃ不謹慎ですが、アウシュビッツ収容所が随分まともなところに見えるほど、過酷な環境下で生まれた時から生きてきた、私の人生はそんな人生です。
この不謹慎な表現については、また別記事で深掘りさせていただこうと思います。
教育よりも環境、同級生よりも大人
とてつもなく過酷な環境で生きてきた私が強烈に感じている「世の中の常識」への疑問。
子どもへのしつけが大事
同級生との関係性(友だちづくり)が大事
しつけ?同級生?
大切なのはそこではありません。
正直、今の日本の世の中に〝教育〟〝しつけ〟ができる人はほとんどいません。いても全体の10%程度でしょう。これは私が子どもだった平成の世の中でも同じでした。
子どもに〝しつけ〟をするには、成熟したメンタリティと自分自身が学び、挑戦し続けている必要があります。
必要なのは、子どもへのしつけではなく〝大人〟へのしつけです。
同級生との関係も大事でないとは言いませんが、それ以上に大事なのが周囲の大人たち・その大人がつくっている環境です。
この感覚、つらい環境を生き抜いた方には共感してもらえるんじゃないかなと思います。子どもは、子どもの力・選択でひどい環境から抜け出すことができません。どれだけ行動を起こしても、大人の力で簡単に捻り潰されてしまいます。それまでの努力が一瞬で水の泡になるのです。
だからこそ、大人へのしつけが必要なんです。
大人へのしつけは実現しないからこそ…
とはいっても、大人へのしつけを実現することはできません。
しかし、同じような効果を出すことはできると信じています。その方法こそ、私が提供予定の一人ひとりがこの世界を好きになるライフコーチングです。めちゃくちゃ宣伝っぽくなってしまいすみません(笑)
まだサービスをリリースできていないので、今回の告知はちょっぴり多めに見てやってください(笑)
私が今の日本に必要だと思うもの。
逆境体験を生き抜いた大人たちが
〝普通の人〟よりも活躍する世界をつくること
しかし、逆境を経験した人たちは多くのトラウマと傷を抱えているため、日々を問題なく過ごすこともままならない。だからこそ、そこから少しだけ抜け出すことができた私が全身全霊をかけて、苦しむ人たちをサポートして、この目標を達成したいのです。
未来の犠牲者をほんの少しでも減らすために。
インターネットが普及し、人間がより怠慢になっている今、大人たちの未熟さは年々増しています。もっといえば、成熟と未熟の二極化がどんどん進んでいます。
そんな今を、あなたはどう考えますか?
ぜひ、コメント欄で教えてください。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
また別の記事でお会いできることを楽しみにしています!
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