コロナと。 ③喜びが要る 後編
前編↓
美術家カミイケタクヤさんがカウンターのチェックやメンテナンスにやってきた。
いつも通りさっぱりした雰囲気だ。
ここに、カミイケさんがカウンターのチェックに来たということは、私は迷っていることを話しても大丈夫かもしれない。
なぜなら、カウンターのチェックだって「不要不急」と言ってしまうこともできるのに、カミイケさんはやって来た。
私は新しく製作して欲しいものについて相談してみた。
それは、言ってしまえば「ついたて」だ。
最近はどこの店でも、店員とお客さんの間にビニールシートやアクリル板がある。
だが、そういうものはTetugakuyaにはそぐわない。
疲れてTetugakuyaに来る人もいるだろう。
ニュースでは、コロナによって対応を迫られる姿ばかりが浮き彫りになっているようにも思う。
Tetugakuyaが大切にしているのは、非日常感だ。
時計は狂っているし(電池のところが壊れてる)、外界から遮断されたような雰囲気がある。
時間を忘れて過ごす人もいれば、うっかり支払代金を握りしめたまま、支払いを忘れて帰ろうとする人もいるほどだ。
Tetugakuyaが他のチェーン店のようにビニールシートやアクリル板でお客さんとの間を仕切らなければならないなら、もうTetugakuyaは閉めたほうがいいくらいだ。
けれども、もしも香川で感染者が急増したら?
それでも、ここを開けていようと思ったとしたら?
(一人でも二人でも、対話を求めて、休息を求めて、くる人がいるかもしれない。誰も来なければ、店内事務仕事や「てつがく屋」の方のレポートを書いたりしていればいい。)
もう少し何らかの対策が取れるよう備えておいた方がいい。
前編でも書いたが、Tetugakuyaは天井高4メートル。最悪、ビニールシートを垂らすとしても4メートルの位置からというのは作業として厳しい。
「ついたて」が必要だ。
ただ、木枠を作るだけなら、私と父とで作業できる。ただしものすごいダサいものになるだろう。
お客さんは、十分コロナ疲れしている。いや、コロナ疲れしていない人もいる。
自粛と萎縮は違う。元気一杯なのは良いことだ。自粛ムードがあったとしても、お通夜みたいな顔をしていなければならないわけではない。元気な人の居場所であっていい。
コロナに対して他の人とは違う見方をする人もいる。コロナとは関係なく生活を続ける人もいる。そういう人が居てもいいし、Tetugakuyaは、マイノリティの人々が集っていい場所だ。
だから、単なる「ついたて」ではいけない。美しく面白みがあり、ついでにコロナ対策もできるものでなければ。
何よりも、喜びや驚きやワクワクを伴っていなければならない。
来た人にコロナを忘れさせるようなものであって欲しい。
どんな時でも、人としても成長してゆくこと、店としても進化して行けることを証したい。
寂しいニュースも多い。
でも、私たちが生きるには「喜び」が必要ではないか。
「何か新し物を生み出そう」
そう思っていた。
ついたては、Tetugakuyaの進化の象徴でなければならない。
停滞でもなく、縮小でもなく、成長と進化だ。
現実的には、先月の会計を締めてみれば、普通に赤字だ。家賃など今後のことを考えてお金を貯めておくべきではないか。このタイミングで出費することに迷いはあった。
今、内装に費用を費やすのはバカじゃないのかって思った。
でもよく考えてみたら、バカは最初からだし、お金がないのも最初からじゃないか!!
そう自分に言い聞かせた。
カミイケさんに相談する時も、まだ覚悟がハッキリと決まっていたわけではなく、常に気持ちは揺れていたが、実際に言葉にして、話してみることで決まった。
そして、喜んだり、驚いたり、ワクワクしてる人の顔を見ることは単純に喜ばしく幸せだ。
今、何か新しくなることで、みんなの顔がパッと明るくなるといいなと思った。
カミイケさんは、快く仕事を引き受けてくれた。5月の4日のことだった。
引き受けてくれた、というよりも、受け入れてくれたという表現が私には近い。
そして、5月20日Tetugakuyaヴァージョンアップは遂行された。
続く・・・。
美術家カミイケタクヤHP (現在無人個展「不在通知」を開催中)
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