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コロナと。 ③喜びが要る 前編

私は脆く弱く影響を受けやすい人間だ。
2月になって、まだ香川に一人も発症者がいない頃から、早速コロナ鬱になる程、弱い。


今回の話は、私が回復した後のことだ。

「人との接触を8割減」とTVが言うようになったころ、私は取り入れる情報を8割減にした。

その成果は覿面だった。

復活して来たころには、むしろファイターのような気分になって居た。

別に『ロッキー』のテーマソングが流れていた訳ではなく、私は深い静けさの中に在った。

今こそ私自身がどう在るかが問われている。

今こそTetugakuyaという存在のあり方が問われている。

普段からそういう想いは常に持っているが、今だからこそ行動によって体現するべきではないのか。

自分がどういう人間で在れるかを自分自身に対して証したい。

そういう想いが、私を支えていたと思う。

香川県で「休業要請」が言われた。期間は、ゴールデンウィークの4月25日から5月6日までの間だ。協力した事業者に協力金10万もしくは20万支給するという内容付きだった。

ありとあらゆる人たちが計画していた内容を自粛し、喫茶店なども休業宣言するところが殆どだった。

情報を削減した私でも、周囲の情報は少しなりとも入っている。

休業要請とは一体どういうことなのか、県のHPから担当者に電話で問い合わせることにした。

結論からいうと休業要請の対象に全く当てはまっておらず、通常営業をしてくださいと言われた。

飲食の場合、8時以降の深夜営業の店は当てはまる。もしもアルコールを提供しているなら19時までにして欲しいとのことだった。観光客が多いうどん屋やいくらかの業種は対象になっていた。

それでも周囲の喫茶店が相次いでその期間休業するのが分かると、当然、気持ちは揺さぶられた。私も休業したほうが精神的には楽なのではないかと思った。

自分にとって精神的に楽な方を取るのは有りだろう。
それは別に悪いとは限らない。

けれども、営業することにした。

営業を決めた理由は、自分がどこまで自分の判断で行為できるのかを自分に示したかったということが一番大きい。どんな時でも、どんな時代になろうとも、仮に最後が在っても、自分の力で考えて判断することができるのかどうか、自分の生き方で証ししたかった。そうでなければ、哲学で学んできたこととは一体何だったのかという話になる。

もちろん、もっと現実的な理由があってのことだ。

・店の立地は辺鄙なところにあり、何かのついでに寄って行けるような場所に位置して居ないこと。偶然誰かが立ち寄ることも、通りすがりの人がお茶を飲むことも、ほぼありえない店であること。そもそも外観は店の見た目をしていない。

・店のFacebookページを早々に非公開にしていた。(←5.25日から公開再開)
営業しているのかどうか、ネット上では判らないようになるべく気を配った。営業しているとは思わないだろうから、来る人がほとんどいないであろうこと。

・週2日13時から19時までしか営業していないこと

・新しいお客さんが入れ替わり立ち代り来ることが当たり前でないこと。

・天井高4メートル、面積約60坪分、店としてメインに利用している空間でもおそらく30坪強あること。4壁面のうち2壁面が窓であること。

・モーニングもランチもない店であること

こうして書いてみるとTetugakuyaには、経営上ネガティブな要素ばかり・・。


営業中、予想した通りになった。営業時間は1日6時間、来店者は1日あたり5人や6人。まるで申し合わせたように、人が重ならない。仮に2人や3人居たとしても、空間が広すぎて座る位置がかなり離れる。5人や6人という数も、自粛ムードになってからしばらくそうだったので、一部の業種に「休業要請」が出て更に緊張感が高まっていた時とその前との間にそんなに差はない。

そんな時だった。

「今働いてるのは医療関係者とあやのちゃんぐらいだよね」と言われた。


突き刺さる言葉ではある。

何せ、気が弱い。


メディアやネットは仕切りに「不要不急」と言っている。道路を車で走れば電光掲示板は「不要不急の外出を控えてください」と書いてある。SNSには自分がいかに自粛し、人に会わないをかアピールする投稿もあるようだ。

今は多くの人がそういう状況に置かれているのだ。

私にそういう言葉を発したその人本人もかなり体調が悪そうだった。その人自身も傷ついているのだ。まるで、自分にとって掛け替えのない営みが、生きるためには必要のないものであるかのように切り捨てられるような感覚を「不要不急」という言葉は突きつけて来るところがある。

それって本当に必要なことですか?

絶対に絶対に必要なんですか?

命よりも大切なんですか?

それがないと生きていけない人がいるんですか?

もしものことがあったらどうするんですか?

もし、そういう問いを他者に対しても自分に対しても発するならば、追い詰められてしまう人が多いだろう。

それにもかかわらず、Tetugakuyaの店主は好き勝手やっているではないか。

そうかもしれない。


確かに不急なものだ。急ぎのものではない。

けれども不要かどうかと言われると、必要だと私は答える。


他の人にとって不要であるのは仕方がないことだ。そもそも最初からTetugakuyaに縁のない人も多いし、Tetugakuyaの存在を知らない人も多い。一度来たらもう二度と来ないお客さんもいるだろう。そういう人達にとって、Tetugakuyaは不要なものだろう。

私にとっては違う。

Tetugakuyaは、私の生活の重要な一部だ。生活とは生きる活動だ。

Tetugakuyaは、生きている私自身の一部だ。

Tetugakuyaは、この世界の中での私の居場所の一つだ。

Tetugakuyaは、「私の生き方」そのものであり、私の生きる過程だ。


だから、他の多くの人や馴染みのお客さんが、自粛されてTetugakuyaに来なくなるということも、当然のことだ。それぞれに守るべきものがあり、人生があるし、その時々によって、Tetugakuyaが必要がないこともあるだろう。
Tetugakuyaは、お客さんにとっては、あくまで自分が行く様々な行き先の一つに過ぎない。他の人はTetugakuyaとして生きているわけではない。


コロナの期間中、気にかけて来てくれるお客さんは居た。ありがたくもあり、無理はして欲しくはないと思っていた。
ステイホームするべきなのに外出するなんて・・という葛藤や罪悪感を抱えてまで来て欲しくはないという気持ちがあった。

来てくれたお客さんの姿は忘れないだろう。お客さんたちのほとんどは決して明るくはなかった。

いつも冷静でどっしりとした雰囲気のあるお客さんの顔色が曇り、眉間にシワを寄せてるようになった。

何か大切なものがこの世界から失われてしまうのではないかという、悲壮感をもって、壊れそうな顔をしているお客さんもいた。

4月後半から少しづつ私の中で、また変化が起こってきた。

何か新しく変化させたいと思った。これからのためにも。

一番に思い浮かんだのは美術家カミイケタクヤさんだった。

彼は、今のTetugakuyaのカウンターを作品として制作してくれた人だ。

けれども、彼に声をかける勇気がなかった。

もしも、価値観が大きく違ったとしたら。

今は何か新しい動きをするべき時ではなく、自粛すべき時だと彼が考えているとしたら。

そんな非常識なことを手伝うなんて、絶対にありえないと、拒絶され、その上関係が壊れるのでは・・・と思った。

漠然とそうしたことを考えていると、不思議なことにカミイケさんから連絡が来た。

「元気ですか?」と書かれていた。

私はTetugakuyaが営業を続けていることさえ、彼に嫌悪されるのではないかと思い、返事を書くことができなかった。

今は、不用意に人と話しにくいところがある。

特にネットを経由しては。

彼と衝突をしたくはない。

私だってようやく元気になったばかりだ。精一杯必死に自分を保っている。

日数が経ってから、当たり障りのない返事をした。

すると更に、返信が来た。

思ったよりも明るく元気でスッキリした様子が文面から感じられた。

1年経ったのでカウンターのチェックをしたいから都合の良い日を教えて欲しいという内容だった。

カウンターのメンテナンスも兼ねて見に来てもらう日程を決めた。

私は曖昧な書き方をして見た。

新しい仕事を頼みたいと悩んでいると・・・・。

②へ続く・・・と思う。(次回予告)


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カミイケタクヤ制作 Tetugakuyaのカウンター 2019年1月

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