永眠しかけるほど長い休業へ

休業宣言


おそらく5月の21日だったか、休業宣言をした。

その少し前に、母親が入院したことで、自分の生活環境に大きな変化があったことは確かだけれど、それ以上に、色々なことが重なった。

8月で6周年になる。

6年も!!!私の人生の6年もの間がTetugakuyaに注ぎ込まれていた。

来年も、再来年も、去年のようなあり方をしていたくない。これ以上続けられない!

私は、自分自身のあり方をもう一度振り返っていた。


良い加減な大人たち


Tetugakuyaという店は、特殊な店だと思う。

何か完全に決まって出来上がったシステムをもとに機能しているわけでもなく、そもそも喫茶を始めたのもお客さんの提案からだった。

最初は、人が集うと、お茶を入れて、お客さんと談笑していた。そんな時に、「喫茶にすればいいのに」と言われて、本当に喫茶にすることにした。

店をやりながら、人と出会って、想像以上に、人々がいい加減なことに驚いたりもした。

大人の社会は、もっと秩序に基づいてできていると思っていたからだ。

大体のことは口約束で、ざっとしていた。何かプロジェクトが立ち上がっても、計画表というものはほとんどなく、あってもないようなもので、本当に当日イベントができるのかわからないまま見守ったが、いつも必ず、成立していた。

何を持って成立とするのかどうかはわからないが、人は集まり、告知されたイベントは告知された通りに行われたのだ。

イベントを通して、その企画運営者の柔軟さにも、最初は驚かされた。集まった人たちに合わせて柔軟に対応しているようだったからだ。

そもそもお客さんあって成立するイベントだから、お客さんもイベントの担い手だったのだ。


私は、そうやってTetugakuyaに来てくれる人たちの提案を受けて、よほど店に合わないものではない限り、何にでもチャレンジしてみた。

チャレンジすると言っても、私は、場所を貸すことぐらいしかできなかった。自分の作った店が会場になって、人が集ってくれるイベントが行われることに、逐一感動した。感動のあまり、そこに集う人たちを愛おしく思ったし、よく写真を撮るようになった。

人は、コントロールできない。それぞれに自分のペースや自分のルールを持ったお客さんたちが、互いにお店を使って、何かを起こしてくれるたびに、魔法のように思えた。


秘密基地を作るように


自分のお店を居場所にしれくれた人は、お店が少し良くなると、とても喜んでくれた。自分が諦めきっていた蛍光灯の照明を、外しましょう!と提案してくれたのは、お客さまで、本当に現実的にそんなことができるのか、疑っていたが、言われる通りにやってもらおうと思った。

私だけではなく、両親も半信半疑だった。

私は、高所で重いものを持つのには、自分の力を発揮することはできなかったので、地上でウロウロしたり、ほんの少し手伝うことしかできなかった。

初めて、電球の灯りがついた時には、生まれて初めて電気を見た人でもあるかのように感動した。温かくて柔らかい光が、店内で綺麗な影を作った。

常連さんが、「いいよね。この電球の黄色い灯りが。」としみじみ言ってくれたのを覚えている。

この場所を気に入って、大事に思ってくれる人がいて、顔を見に来てくれる人々と次の季節を迎えた。

夏は暑かった。

差し入れでもらったのは団扇。

みんなで扇風機の風に当たりながら、団扇を仰いだ。

エアコンをつけることは、私にもお客さんにも必要なことだった。

エアコンのカタログと睨めっこしながら、カウンターでみんなで相談をする。

「どれにしよう・・・。どの位置につける?」

あの頃のうちの珈琲は2種類しかなく、一杯450円、まるで限られたお客さんと共同運営しているようでもあった。何せ、お客さんは、4時間でも平気でいたのだから。

次は、お店のどこをいじろうかと、相談するのも楽しかった。

うちに来るのは常連さんばかりではない。一見さんも来てくれたが、店の奥まで見てくれず、手前でみんな帰ってしまう。ここでも、店の動線についてお客さんに相談して、思い切って、壁を切断するなんてこともやった。

お客さんにアイディアをもらったり、今では考えられないけれど、お客さんと一緒に営業時間中に鋸を引いたりして、秘密基地を作っているようでもあり、手をつけなければならないところだらけで、面白かった。

そういえば、お客さんが、うっかり間違えて、別のところを鋸りで切ってしまったこともあった。

経験したことのないことばかりで、何が本当にできて、何ができないのか、当時の自分にはわからないことだらけだった。

お客さんの方が、ずっと社会経験が長くて、物事をよく知っている。教えてもらうことばかりだった。あの頃を振り返ると、くたくたでもあったけれど、本当に何もわかっていなくて、きっとこの店はまだ良くなると思うと、夢があった。

そもそも、自分の店に、なんと、人が来る!!ということだけで、奇跡のようだった。

じっくりと人と出会っていくと、みんなヘンテコだ。それぞれのこだわりがあるし、自分のペースがあり、持ってる能力も違う。右も左も分からない私にしてみれば、その日になってみない本当のところ何が起こるのかちっともわからない。それが、楽しかった。

当時は、私だけではなく、母と二人で店にいたので、ある頃から私一人で店に立つようになっても「お母さんは?元気?」と声をかけてくれる人も多かった。

そういえば、お客さんと私だけではなく、母も威勢よく鋸を引いていた。親子二人で店をお客さんたちで、コツコツ作り上げていった。

しばらくして、ここは、実験場なのだとわかってきた。お客さんと出会い対話することも、次にお店で何が起こるかも、私には決してコントロールできるものではなかった。だからこそ、奇跡のように思えたのだった。

今の「なるべくお客さんが望むようなことが実現されたら良い」「お客さんがやってみたいということをできるだけできるようにしたい」というスタンスは、この頃の経験で出来上がった。

計り知れないからだ。

その計り知れなさの中で、幾度も感動してきた。
家に帰ってから、どれだけ感動して涙を流しただろう。一緒になって店を作ってくれた沢山のお客さんたちは、家族でも親戚でもない、いわば他人なのだ。

私には、ご近所付き合いにもなく、親戚も近くにいない。

お客さんが、大根やお菓子の差し入れを持ってきてくれるだけで、驚くべき経験だった。

どれだけ、面と向かって、向き合う他者という人々との出会い、対話、共に経験する驚くべき出来事について、嬉しくて泣いただろう。

そして、そんなひとりひとりと出会い、相手のうちに計り知れないものを見て、それが存分に発揮されたらどうなるだろうかと思わずにいられない。

その計画が完璧じゃなくてもいい。アイディアが飛躍に満ちていてもいい。私が与えられたチャンスを他の人にも。何もわからないまま、様々なことに挑戦できたのは、ひとりではできなかった。

元々哲学をやっていて、飛躍を嫌った自分とは、だんだん別人のようになっていった。

何かやってみたい!と誰かが言った時に「それってちゃんと採算取れるの?全体の計画はどうなってるの?誰がどの役割をやるの?予算は?売上の見込みは?」と言って突っぱねるのではなく、この世界の隙間に、「良いよ。どうなるかな。やってみようよ。」そう言える場所があってもいい。


カウンターチェアは、もうベンチじゃない!


お客さんの提案でお店を変えていくことも、他のお客さんを喜ばせた。お店が前よりも居心地が良くなっていくからだ。

たくさんのことがあったが、私が最も嬉しかったのは、お客さんが座る椅子が、木のベンチから、一脚づつのカウンターチェアになったこと。

お客さんから頂いた売り上げから、お客さんが座る椅子を買う。

それができたことが嬉しくて、誇らしかった。お客さんに、自分の頑張りを示せた気がしたし、恩返しができた気がした。

この時のことは、その後のTetugakuyaにとって、私にとって、大きなことだったと思う。お店は、私一人が作っているのではなく、お客さんの売り上げによって、支えられ、継続していく。お客さんの売り上げが、お客さんに還元される。そのことを実感してくれたお客さんは、また、一緒になってこの店を育ててくれる。

お客さんから頂いた売り上げを貯めて、木の板で組んだベンチチェアから、一脚づつのカウンターチェアを購入できたことは、今振り返っても、何か決定的なエピソードだったと思う。


受身な店主


それから私は、ここで巡り合う色々な人たちとの突拍子もないと感じられることも、受け入れていく。そう、実は、Tetugakuyaは個性が強くて頑固で、人を寄せ付けないようなイメージを持たれがちだが、店の世界観を破壊して他のお客さんをガッカリさせないことなら、なるべく受け入れていく。ひたすら受容するスタイルになっていったのだ。

そこでのやりとりには、絶対の期日も期限もなければ、書面も交わさない。全体像もよく見えてこないが、大の大人たちが、「まあこんな感じで」と進めていく姿を見てきた私は、できるだけそれに沿うようにする。

ただし、私が握っているのは、デザインとお金。

経費は必ずお店から出すわけだから、どんなアイディアでも受け入れるということにはならない。

お金に限りがある。デザインについても、ある程度の方向性はあったから、それについては、私の方からお願いしたり、意見をいうことが多い。

だから、自然と身の丈に合ったものにしかならない。その時その時で、出せる経費が違った。

最初の頃は、微々たるお金しか出せなかった。

でも、それでよかった。

身の丈に合わせて、少しづつ成長すること。一気に伸びては折れてしまうから。

もしも作家さんに頼む時なら、あまり細かい注文をしないようにした。綿密な注文をしてしまえば、相手を業者さんのように扱ってしまうことになり、その人の作品性を奪ってしまうのではないかと思ったからだ。

できる限り自由にその人の感性が表現されればいいと思った。

予算を変えると言われても、頑張れた。

作家さんが、Tetugakuyaには、絶対必要だと考えたことを無視できない。

それに、うちには出せるお金がないことを知って言われたのだから、制作する上で大切なものなのだろうと思った。

とはいえ、元の私の性格は、そんなにざっくりしていないし、警戒心が強く疑い深い。本当に大丈夫なのか、不安で仕方ないが、あとは祈るのみで、当日を待つ。

そうやって、店を経営して月日が経った。


突然タフになる


コロナウイルスという未曾有の事態を経験した時には、突然、タフになった。普段は臨時休業が多いのに、ほとんど臨時休業をせず、意地でもOpenし続けた。

香川県の感染者数8名で、今、店を開けている人間は、「ヒトに在らず」と言われるのが、なんの疑いもなく当たり前になった時にこそ、もう一度考えてみなければならなかった。本当に、自分が店を開けたら、人間として非倫理的なのかどうか。

もしも、他の店と同じように休業しなければ何を言われるかわからないから、という理由で、店を閉めるのだとしたら、私はTetugakuyaという看板を下ろさなければならないと思った。

50年の単位で見た時に、この一瞬の時間は、ある種の集団ヒステリーではないかと思えた。とはいえ、店に火炎瓶でも投げ入れられかねないほど、世間はピリピリしていた。だから、こっそりと地下組織でもあるかのように、誰もこなくても良いと思って店に立ち続けた。

そもそも、店を営業しているなんて、そんな馬鹿がいるはずがないと人は思う。そして、人は出歩かない。だから、店を開けていても、来る人は、本当に少なかった。丸一日開けていて4人とか。

世間がみんな口を揃えて同じことを言い、同じように人々が振る舞い始めた時、私は、突然、すくっと立ち上がってしまったようだった。自分でも信じられないほどタフになってしまったのだ。

もちろん、私の決断が正しいのかどうかは、賛否両論あるはずだ。例えば、単に盲目的であっても右に倣うということが生存戦略として必要だという考え方もできるし、その方が後々賢いということだってできる。

別に、青い(若い)からだと笑ってもらっても構わないが、「みんながそうだからって、右に倣わなければならないならば、私、死にます。」という覚悟だった。

ネット上には、見知った人たちが、「自分がいかに自粛して外出していないか」毎日のようにアピールしていた。だから、ネットを見ないように努力した。

お通夜のような日々、暗いお客さんの顔、ネットでも、何も楽しい投稿をしてはいけないような空気感。そう、こんな事態の時に、幸せな気持ちを抱いている人間がいたとしたら、「不謹慎」という圧力は間違いなくあった。


こんな時だからこそ、静かに、店内の改装をした。


突然、知名度が上がる


こっそり改装した店内は、お客さんが撮影してネットに上げたことで反響を呼んだ。取材の話やテレビのワイドショーで取り扱いたいと電話が鳴った。


それらをしばらくの間は、静かに断っていった。


だが、その後も、ネット上で反響を呼び、コロナ禍において、コロナ以前よりもお客さんが来るようになった。


天井を知る


大勢の人がやってきて、店内の椅子という椅子に人が座り、電話がひっきりなしになった。

一人で珈琲をドリップして、洗い物をして、レジを打って、注文を聞きにいくのだから、到底手が回らず、一杯の飲み物に1時間も待たせた人もいたのではないかと思う。


いつか、お店が良くなったら。

いつか、お店を知ってもらえるようになったら。

その遠い未来、この店がどんなふうになっているのかもわからなかった。

だからこそ、コツコツ将来を夢見て続けてきた。


それが、突然、知られるようになり、突然北海道や九州からも人がやってくるようになった。


そして、私の中で何かが折れてしまった。


この店は成り立たない。

そう気づいてしまった。

人が大勢来ても、店を回せない。人を雇えば、店は回せるが、本当にそれで良いのか。店を観光地にしたいかというと、そうではない。そして、これだけの人が来て、これだけ人とのコミュニケーションを失って、得る1日の売り上げは、これだけなのかと。もちろん、今までよりも多い。けれども、人との対話がなくなり、単に飲み物を提供するだけの場所になって良いのかというと、何かが違う。


皮肉にも、店が有名になって、私のなかで何かが崩れていったのだった。


そこにはただ現実があった。


最初からわかっていたことなので、全く驚かなかったが、人が押し寄せてくることは減っていった。むしろ、集団での来店を遠慮してもらったり、工夫をしたと思う。人の波が落ち着いても、以前よりも知ってもらい、お客さんが増えたことには変わりなく、だが、落ち着いていった。

この時期に新しく常連さんになってくれた人たちとの出会いもあった。

でも、私は、もう前と同じではいられなかった。信じられないほど沢山のお客さんに恵まれたとしても、売り上げと仕事の内容が、どういうバランスになるのかという現実を知ってしまったのだから。

目標や夢を失って、ただ浮かんでいるだけになってしまったかのよう。

このままではいけない。これからのことを考えなければならない。でも、知恵は出てこなかった。


対話をなくして、内装の面白い店として、ただひたすら飲み物だけを渡して、観光地的に売り上げを上げて行くのか。いや、そんなのものは限界がある。人はすぐに飽きるのだから。

インスタ映えする店を作って、ばばっと売り上げて下火になる頃に、店を畳んで、また、次にブームになりそうなビジネスをやる。

私は、そういうことはできない。この店は、私の人生の写し鏡のようであり、私、自身のようでもあった。花火を打ち上げて客を呼ぶのはガラじゃない。

小さな石を積むようにして、育てて、成長し、成熟させていく、そういう店にしていきたい。そう常に宣言し続けてきたのだ。

かといって、対話を重視した今までのやり方を続けると、いつまで経っても採算は合わないだろう。うちはバースタイルのようでいて、バーではない。カウンターが顔であり、命だが、出てくるのはノンアルコールだから、お茶いっぱいの値段をそんなに上げられない。ただでさえ、もう十分高いと思っている人だっているのに。


受身の姿勢で、真っ逆さまに落ちる


続く



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