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「カント」哲学散文12

理性の光で世界を照らすカント哲学

18世紀のプロイセン王国の都市ケーニヒスベルク。
バルト海に近いこの街で一人の哲学者は生涯のほとんどを過ごしました。
日課の散歩は市民が時計を合わせるほど正確だったと言われています。
規則正しい生活の中で、彼の内面では壮大な哲学が繰り広げられていました。

カントの生涯

イマヌエル・カント(1724-1804)
1724年ケーニヒスベルクの馬具職人の家に生まれました。
ピエティスト(敬虔主義者)の母のもとで、禁欲的な生活と勤勉な学問的姿勢を身につけます。
8歳からケーニヒスベルクのフリードリヒ・コレギウムに学び、1740年にケーニヒスベルク大学に入学。神学を学ぶかたわら、哲学、数学、自然科学に没頭します。

大学卒業後は家庭教師を務めながら研究を続けます。
1755年『天界の一般自然史と理論』を発表し、学界の注目を集めまることになります。この著作でカントは「カント-ラプラス説」と呼ばれる宇宙生成理論を提唱。天文学者としての才能を示しました。

同年ケーニヒスベルク大学で教鞭を執り始めます。
論理学、形而上学、倫理学、自然地理学など幅広い分野の講義を担当。
学生たちからの人気を博しました。
1770年に教授資格論文『感性界と叡知界の形式と原理について』を発表。
空間・時間を人間の認識の主観的形式とみなす先験的観念論の芽生えが見られます。

1781年、カントは57歳にして主著『純粋理性批判』を出版。
続いて1788年に『実践理性批判』、1790年に『判断力批判』を発表。いわゆる「三批判書」を完成させ、批判哲学の体系を築き上げました。晩年は『人倫の形而上学』、『永遠平和のために』など、道徳哲学・政治哲学の著作を次々と発表。
1804年、79歳で生涯を閉じました。

カントが生きた時代背景

カントが生きた時代はニュートン力学に象徴される科学的世界観が確立されつつある一方で、ヒュームらの経験論から懐疑主義が台頭し、形而上学の基盤が揺らいでいました。
理性は信頼に足るのか。科学はどこまで可能か。道徳は普遍的たりうるのか。
これらの問いに、カントは誠実に向き合います。

そのカント哲学の集大成が『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書です。「批判」とは吟味 するという意味。つまり、理性の力を徹底的に吟味し、その限界と可能性を見極めること。それがカント哲学の核心でした。そこには「いかにして学問に確実な基礎を与えるか」という、真摯な問題意識がありました。

カントの問いは現代を生きる私たちにとっても、切実な意味を持っています。AIの発展により科学の 力が飛躍的に増大する中で、理性の限界を見定めることは喫緊の課題と言えるでしょう。
また、グローバル化が進む現代社会にあって、普遍的な道徳原理の確立は不可欠です。

では、次からカントの哲学をみていきましょう。

『純粋理性批判』 自然の認識について

経験論の帰結としての懐疑論を乗り越えるために

自然をどこまで認識できるのか。
ロックやヒュームに代表される経験論は、私たちの知識はすべて経験に由来すると説いています。
しかし、因果関係さえも懐疑の対象にするほどの徹底ぶりでし た。
「太陽は明日も昇る」という日常的な概念さえ論理的に保証していません。
そう主張したヒュームの洞察はカントに大きな衝撃を与えます。

しかし、カントは経験論の行き着く先をただ受け入れるわけにはいきませんでした。
なぜなら、そこ には科学の営みそのものを揺るがしかねない危険が潜んでいたからです。
もし因果律が成り立たないな ら、私たちは自然に法則を見出すことができません。
それではニュートン力学に代表される近代科学 の目覚ましい成果を、いったいどう説明したらよいのでしょうか。

カントの決断は明快でした。
懐疑論を乗り越えるには、そもそも「認識とは何か」を根本から問い直す必要がある。
私たちは本当に、自然をありのままに認識しているのだろうか。
認識の主体である人間 の側に、何か認識を形作る構造があるのではないか。こうした問題意識から、カントの超越論的観念論 が生まれました。

「物自体」と「現象」の区別の導入

カントが導入したのが、「物自体」と「現象」の区別です。
「物自体」とは私 たちの認識とは独立に存在する、いわば「本当の世界」のこと。
これに対し「現象」とは、物自体が私た ちの感性と悟性を通して現れたもの、つまり私たちに経験される世界を指します。

重要なのは私たちが認識できるのは「現象」の世界だけだということです。例えば目の前のリン ゴ。
その色や形、香りは、リンゴそのものの性質ではなく、私の感覚器官を通して現れたリンゴの姿な のです。
「本当のリンゴ」とはそれ自体では色も形もない。
ある種の「もの」X。
それが私の主観的な 認識装置を通過することで、初めて「赤い」「丸い」「甘い」リンゴとして立ち現れる。
これがカントの イメージです。

私たちの認識は常に主観的な制約を免れません。
ですので、物自体の姿をありのまま知る ことは不可能なのです。
しかし、カントはここから驚くべき帰結を引き出しました。
だからこそ、現象の 世界において、私たちは普遍的で確実な知識を持ちうる。
なぜなら、現象を成り立たせている条件その ものが、他ならぬ人間の主観にあるからです。
カントはこれを「コペルニクス的転回」と呼びました。

自然法則は客観的真理ではなく人間知性にとっての主観的理解

では、物自体の世界ではなく、現象の世界において、私たちはどのように普遍的な知識を得るのでしょうか。
カントが注目したのが人間の認識能力の構造そのものです。

カントによれば人間の認識は大きく、感性と悟性の二段階を経て成立します。
まず、感性において私たちは対象を空間と時間の中で捉えます。例えば、目の前のリンゴを「今、ここに」ある「赤く丸い もの」として直観する。
これが感性の働きです。

次に悟性がこの感性的直観を統一し、「リンゴ」という概念へと結びつけます。
そしてさらに、「こ のリンゴが熟しているなら、甘いはずだ」といった因果関係の判断を下すのも悟性の役割です。
つまり悟性は、感性が提供する素材に一定の規則を与え、秩序立てる働きを持つのです。

ここで重要なのは、こうした感性と悟性の働きそれ自体は個人差のない普遍的な仕組みだという点です。
だからこそ、現象の世界においては、誰もが等しく妥当する認識が可能になる。
つまり、私たち が自然に見出す法則は、自然そのものに内在するのではなく、私たちの認識の仕方のうちにあります。
カントはここに、自然科学の普遍性と必然性の根拠を求めたのです。

現象としての自然法則の確実性と普遍性

こうしてカントは、自然科学の営みに新たな基盤を与えました。
物自体の世界には何の秩序もないのかもしれません。
だからこそ現象の世界では、人間の悟性が見出した秩序が普遍的に妥当する。
なぜなら、その秩序を支えているのは私たち人間に共通の認識の仕組みだからです。

例えばニュートンの運動法則。
それが世界そのものの真理だとは言えない。
なぜなら、運動そのものは私たちの直接経験には与えられず、空間・時間・因果性といった私たちの認識形式を通してしか捉えられないからです。

ニュートン力学は「現象としての自然」を記述する限りにおいて、普遍的な妥当 性を持つ。
その必然性の源泉は、世界の側ではなく、人間の認識能力の側にこそあるのです。
こうして、カントは懐疑論に対して科学の学問性を救い出しました。

解明された自然秩序への感嘆と畏敬

「理性の光で世界を照らす」というカントのスタンスの意義が見えてきます。
理性は自然法 則の体系を通して、現象の世界に輝かしい秩序をもたらします。
そしてその秩序の確かさは、人間に共通の認識の構造に由来するのです。

晴れ渡った夜空の星々。
そこに輝く数理的な調和は、理性が自らの内に見出した秩序の反映と言える でしょう。
だからこそカントは、自然の美しさと崇高さの前に、深い畏敬の念を抱いたのです。

しかし、同時にカントは理性の謙虚さも説きます。
いかに秩序だった自然法則の体系を築こうと、それが物自体の真理そのものだとは言い切れない。
あくまでも私たちの認識の制約内での真理。
理性の限界を弁えることは、賢明な態度と言えます。

『純粋理性批判』の意義は、人間の理性の力と限界を同時に浮き彫りにしたこと。私たちは、その両方を心に刻む必要があります。
理性を信頼して自然探求の道を突き進む勇気と、理性を過信せず、その限界 を知る謙虚さ。
そのバランス感覚にこそ、批判哲学の真髄があるといえます。

『実践理性批判』 道徳法則について

自然法則との類比 道徳にも普遍的な法則があるという発想

『純粋理性批判』で、自然法則の根拠を探求したカント。
しかし、彼の関心は自然科学の基礎づけにとどまりませんでした。
次なる大きな問題が、道徳の普遍性です。
人間の行為を律する道徳法則は存在するのか。
それはいかにして可能か。

ここでカントは大胆な類比を行います。
自然には普遍的な法則があるように、道徳にも普遍的な法則が存在するのではないか。自然法則の必然性が、人間の認識能力に由来するのなら、道徳法則の必然 性の源泉もまた、人間の内なる理性の働きに求められるのではないか。

『実践理性批判』で展開されるのは、まさにこの道筋です。
ただし、道徳の場合それを支えるのは 「実践理性」と呼ばれる行為の原理を探求する理性の用法。
その鍵概念こそ「定言命法」でした。
では、定言命法とはどのような原理なのでしょうか。

道徳法則の定式化 「理性の事実」としての普遍的妥当性

定言命法は端的に、「君の意志の格率が普遍的法則となることを常に意志することができるように行 為せよ」と定式化されます。ここでいう「格率」とは、行為の主観的原理のこと。つまり、「私はこう 行為する」という一人称的な行為の方針です。

大事なのはこの格率が「普遍的法則」として妥当するかどうかを吟味せよ、という命法の要請です。
例えば「借りたものは返さなくてもよい」という格率に従って行為するとしましょう。
しかし、こ れが普遍化されたらそもそも貸し借りするという行為自体が成り立たなくなってしまう。
誰も「借りたものは返ってこない」と予想するからです。
だからこの格率は道徳法則たりえない。
このように吟味を重ねることで、道徳的な行為の原理が明らかになる。
これがカントの考えです。

重要なことは道徳法則の妥当性が、あくまで人間の実践理性に由来するという点。
「嘘をつくな」という命令が普遍的だと言えるのは、神の意志によってではなく、理性的な吟味を経た結果なのです。
カントは道徳法則の存在を「理性の事実」と呼びました。
それは外からの強制ではなく、人間が自ら立法した理性の命令なのです。

具体例 「嘘の約束をしてはならない」という命令

では、具体的にどのような行為の格率が、道徳法則として認められるのでしょうか。カントが挙げる有名な例が「嘘の約束をしてはならない」です。

「金に困っているときは、返す気持ちのないまま約束してもよい」という格率を考えてみましょう。
しかし、これが普遍化されれば約束という行為自体が意味を失ってしまいます。誰もが約束を信用できなくなるからです。

これに対し「約束したことは必ず守る」という格率ならどうでしょう。
これは普遍化可能です。
なぜならこの格率に従えば、約束という行為の成立条件が満たされるからです。
約束を交わした双方がそれを遵守する義務を負う。
だからこそ約束は意味を持つのです。

このように「嘘の約束をしてはならない」という命令は、理性の吟味を経て、道徳法則としての資格を得ます。
それは単なる慣習や感情ではなく、理性に基づく普遍的な義務なのです。
カントはこうした義務を、道徳的行為の最高の基準としました。

道徳法則の存在は人間の自由の根拠

しかし、ここで疑問が生じます。
もし人間の行為が普遍的な道徳法則に支配されているなら、それは自由の否定につながるのではないか。
「汝、殺すなかれ」という命令に従うしかないとしたら、私たちに選択の自由などあるのでしょうか。

カントの答えは、正反対です。
道徳法則の存在こそが、人間の自由の証拠だというのです。
道徳法則とは外から強制されるものではなく、人間が自ら立法した理性の命令だからです。
つまり、理性的存在者としての人間は、自分自身に道徳法則を課す自由を持つ。これが、カントのいう「自律」の 考え方です。

例えば「殺人はいけない」と言われて、それに従うだけなら私たちは他律的に道徳に服している にすぎません。
しかし、自分の理性を働かせ「殺人を許容する格率は普遍化できない」と納得して、 殺人を思いとどまる。
そこには自分で道徳を立法する自由があるはずです。

このように道徳法則は、人間を因果の鎖に縛られた存在者としてではなく、自律的な理性的存在者として定位します。
カントは道徳法則の存在を、人間の尊厳の証しとみなしたのです。
自然には従わざるを得ないが、道徳には自ら進んで従う。
そこに、人間の崇高な自由を見出だしたのです。

理性に基づく道徳の可能性 「啓蒙」と「自律」

ここから見えてくるのは、理性に基づく道徳の可能性です。道徳とは、ただ盲目的に従うべきものではありません。
一人ひとりが自分の理性を使って吟味し、納得した上で従うべきもの。
そこにこそ、道徳的行為の本当の意義があるのです。

カントはこの態度を「啓蒙」と呼びました。
「啓蒙とは何か」という小論で彼はこう定義します。
啓蒙とは「自分自身の悟性を使用する勇気を持つこと」だと。
つまり、道徳的であるためには、他人の言うことをただ鵜呑みにするのではなく、自分で考える習慣を身につけねばならない。
そこから真の「自律」が生まれる。これがカントの考えでした。

もちろん啓蒙は容易ではありません。
自分で考えるのは面倒だし、時には勇気も必要です。
しかし、だからこそそれは人間の理性的存在者としての尊厳をかけた、崇高な課題なのです。
道徳法則の前に立ち、それを自分の理性で吟味する。
その姿勢にカントは人間の崇高さを見出だしたのです。

『実践理性批判』の核心は、人間を受動的な存在者としてではなく、能動的な立法者として捉え直したこと。
私たちは道徳を外から押しつけられる存在ではありません。
むしろ自ら進んで道徳に従う自 由な存在。
そのことを自覚し、その自由に値する生を送ること。
それが、カントの説く道徳的主体の姿 でした。

カント哲学の本質

自然法則と道徳法則 真の学問と真の市民社会の基礎

『純粋理性批判』と『実践理性批判』。
一見、無関係に見えるこの二つの書物もカントにおいては緊密に結びついています。
自然法則と道徳法則。
それぞれ真の学問と真の市民社会を支える二本の柱と なるべき原理。
カントの批判哲学はこの両者の確立を目指した営みだったのです。

自然法則の探求によって、私たちは自然の秩序を解明します。
それは人間に共通の理性が見出した 秩序。
だからこそそれに基づいて営まれる学問は、普遍性と客観性を獲得する。
自然科学は、まさにこの基盤の上に成り立つのです。

他方、道徳法則の探求によって私たちは人間の生の規範を明らかにします。それは、各人の理性が 自ら立法した規範。だからこそ、それに基づいて形成される社会は、自由と尊厳を保障する。
理性的な市民の共同体は、この原理なくしては成立しません。

カントは学問と社会の両面から、人間理性のあるべき姿を浮き彫りにしました。自然の探求者として、また道徳の立法者として。
この二つの顔を持つとき、人間は初めてその固有の尊厳を全うできる。
それがカントの信念でした。

星空と道徳律への感嘆と畏敬:理性の力と人間の自由の象徴

「二つのものが、私の心を常に新たな感嘆と畏敬の念で満たす。私の上なる星空と、私の内なる道徳法則である」。
カントのこの言葉は彼の哲学の核心をついています。

夜空に輝く星々の秩序。それは人間理性が宇宙に見出した調和。自然法則の体系のうちに、私たちは 理性の壮大な力を実感します。
そして同時に、その理性をさらに乗り越える何かに触れる。理性の限界 を示唆する、自然の崇高さ。だからこそカントは、星空を仰ぎ見て、畏敬の念に打たれたのです。

他方、人間の心の奥底に響く道徳の命令。
それは人間理性が自らに課した律法。
定言命法のうちに私たちは理性の崇高な自由を体験します。
そして同時にその自由に値する生き方の難しさを思い知らされる。
理性の限界を示唆する、道徳の厳しさ。
だからこそカントは、道徳律の前に立ち、深い敬意を抱いたのです。

星空と道徳律。
カントにとって、この二つは人間理性のシンボルでした。
外なる自然を探求し、内なる道徳を立法する。
その両方の営みにおいて、人間は自らが理性的存在であることを再確認する。
しかし同時に、理性の有限性も思い知らされる。
だからこそ、感嘆と畏敬の念が湧き上がる。
それがカント の理性に対する畏れを含んだ信頼の表明だったのです。

理性に基づく学問と社会の構想 カント哲学の目指すもの

カントの問題意識の根底にあるのは、理性を人間的な営みの基盤に据えること。
学問も社会もその支柱を理性の力に求めねばならない。
そのためには、理性の可能性を最大限に引き出しつつ、その限界をも冷静に見定める必要がありました。
それが批判哲学の重点だったのです。

学問の領域では自然科学の方法論を吟味し、その普遍妥当性を論証すること。
社会の領域では人間の行為を律する道徳法則を明らかにし、それを各人の理性に根拠づけること。
カントの構想はこの両面から理性の能力を開花させ、人間としての生の指針を提供することにありました。

しかも、この指針は単なる精神的なスローガンではありません。
カントは『永遠平和のために』と いう政治哲学の著作で、国家間の平和を実現する具体的方策を論じています。
それは理性の要請する道徳法則を、現実の社会制度の中に組み込もうとする試みであり、批判哲学の実践的帰結といえます。

理性を信頼し、しかしその限界を知る。
そこから生まれるのは理性を人間の尺度とした、学問と社会のヴィジョン。
自然を探求する謙虚な科学者の姿。自律的な道徳的主体からなる理想の共同体の姿。
それらはいわば、カント哲学の具体的な展望図です。

まとめ

カントの問いかけの現代的意義

カントの批判哲学は、単に18世紀の思想の産物ではありません。
むしろ、現代を生きる私たちに、 鋭く切実な問いを投げかけ続けています。

自然科学の領域を見渡せば、AIやビッグデータ解析に象徴される新たな知のパラダイムが生まれつつある一方で、気候変動や生態系の危機といった課題に直面しています。
理性は自然をどこまで解明でき、またどう向き合うべきなのか。
カントの問題提起はまさに今、新たな意味を帯びているのです。

他方、道徳や社会の領域に目を向ければ、グローバル化のさらなる進展とともに、多様な価値観の共 存が避けられない状況になっています。
そんな中で、人間の尊厳という普遍的価値を説得的に基礎づけ ることは可能か。
カントの道徳哲学は、この難問に対する一つの有力な手がかりとなるはずです。

「理性の限界と可能性」このテーマはけっして色あせることはありません。むしろ、科学技術の急速な発展と、価値の多元化が進む現代だからこそ、その意義は増しているとさえいえます。
だからこそ私たちはカントの批判哲学の精神を、現代の文脈の中で問い直し続ける必要があるのです。

理性の限界と可能性についての洞察

カントの批判哲学の核心は「理性の限界と可能性」を見極めようとした点にある。
彼にとって重要だったのは、理性を過信することも過小評価することもなく、その正確な位置づけを行うことでした。

自然認識においては、「物自体」と「現象」を区別することで、理性の限界を画定。私たちは、物自 体の姿をありのままには知りえないが、だからこそ現象の世界で普遍的な知を獲得できる。そのメッ セージは、科学に対する畏敬と謙虚さを同時に教えてくれます。

道徳の領域でも、カントは理性の役割に微妙なニュアンスを込めています。「理性の事実」としての 道徳法則は、理性のみによって基礎づけられる。しかしそれは、理性が人間に強制する外的な命令では なく、むしろ理性的存在者としての人間の尊厳の表れ。ここでも、理性への信頼と、その限界の自覚が背中合わせなのです。

「理性の限界内の形而上学」カントのこの言葉は示唆的です。
形而上学的思弁に安易に走るのではなく、しかし理性の力を最大限に生かすこと。
その地道な探求の中にこそ人間的な知恵が宿る。
これがカントの批判哲学から私たちが学ぶべき教訓の一つといえるでしょう。理性の謙虚さと勇気。
そのバランス感覚を養うこと。それが現代を生きる私たちの課題なのかもしれません。

自律的な思考の重要性と難しさ

カントが説いた「啓蒙」の理念。
それは他人の言うことをただ鵜呑みにするのではなく、自分の頭 で考えることの大切さを訴えるものでした。
道徳的であるためには自律的に思考する習慣を身につけねば ならない。
これは現代においても、いやむしろ現代だからこそ、重要な指摘だと言えます。

情報があふれ専門化が進む現代社会では、自分で考えることの難しさが増しているのかもしれませ ん。
複雑な問題に直面したとき、つい専門家の意見をそのまま受け入れたくなる。
あるいはAIに判断 を委ねてしまいたくなる。
しかし、カントはそうした他律に警鐘を鳴らすのです。

たとえ正解が見えにくくとも、自分の理性を使って粘り強く考え抜く。
そこから初めて、本当の意味 での「自律」が生まれる。
AIやビッグデータに囲まれた現代だからこそ、このメッセージは重みを増 しています。
もちろん、それは容易なことではありません。時には勇気も必要でしょう。

しかし、カントはそれこそが人間の尊厳に値する生き方だと説きます。
「自分自身の悟性を使用する 勇気を持つ」
批判哲学のエッセンスはまさにこの一点に集約されている。
私たちはこの勇気ある 思考をいかに実践できるか。
それがカントから私たちへの問いかけなのです。

哲学するとはどういうことか カントに学ぶ批判的思考の姿勢

最後にカントの批判哲学から学ぶべき「哲学する」ということの意味を考えてみたいと思います。
カントにとって哲学とは何よりもまず批判的に思考することでした。
自明と思われることでも、立ち 止まって吟味してみる。
その姿勢なくして、本当の意味での哲学はありえない。
それがカントの信念です。

『純粋理性批判』でカントは「思考の転回」とも呼ぶべき大胆な発想の転換を行います。自然法則 は世界の側にあるのではなく、人間の認識のあり方の中にこそ求められる。
この逆転の発想はまさに批判的思考の賜物だったと言えるでしょう。

『実践理性批判』でもカントは当時の通念に挑戦します。
道徳法則は神の命令ではなく人間理性の所産である。
だからこそ道徳的であることは他律ではなく自律なのだ。
ここには伝統的な道徳観への根源的な問い直しがあります。

このように見るとカントの批判哲学とは、自明視された前提を問い直し、新たな地平を切り拓く行為だったことがわかります。
ある意味で哲学とはまさにそういうものではないでしょうか。
固定観念にとらわれず柔軟に、しかし理性の導きの糸を手放さずに思考すること。
そこから、新しい世界の見方が生まれる。

カントから私たちが学ぶべきは、このような批判的思考の姿勢です。自然であれ、道徳であれ、あるいは社会であれ、そこには常に自明視された前提があるものです。
そうした前提に異を唱え、問い直すこと。
「哲学する」とはつまるところそういうことなのかもしれません。

もちろん、それは孤独な行為かもしれません。
なぜなら批判的思考は、多数派の意見に逆らうことを意味するからです。
しかし、カントはそうした「啓蒙」の勇気にこそ、人間の尊厳が宿ると説きます。
だからこそ私たちは安易な同調を避け、批判的思考の道を選ぶべきなのです。

星空の秩序に感嘆し、道徳法則の前に畏敬の念を抱くこと。
しかしそこで立ち止まらずに、それらを可能にしている私たち自身の認識のあり方そのものを問い直すこと。
カントの批判哲学は、私たちをそんな果てしない哲学へと誘ってくれます。
その先に開ける地平を想像すること。それが、カン トから学ぶ「哲学する」ということの意味なのかもしれません。

以上、カントの批判哲学の核心を現代の文脈に引きつけながら考察してきました。
理性の限界と可能性、自律的思考の重要性、そして哲学することの意味。
これらのテーマは、けっして過去の遺物では ありません。
むしろ、複雑さを増す現代世界を生きる私たちにこそ、切実に問いかけられているはずです。

カントの著作は、難解な言葉に包まれ近寄りがたい印象を与えます。しかし、その核心にあるのは、理性への畏敬と謙虚さ、そして人間の尊厳への揺るぎない信念でした。
この思想的な遺産を、私たちはいかに引き継ぎ、現代に活かしていけるのか。それが、カント哲学が私たちに託し た課題だと言えるでしょう。

理性の光で世界を照らすこと。
自律的に思考すること。
世界を異なる目で見ることの勇気を持つこ と。
星空と道徳律の前に立つとき、カントもまたそう呼びかけているのかもしれません。批判哲学は、終わることのない旅なのです。

おわりに

カントの哲学のエッセンスを哲学散文でお伝えするのは至難の業でしたが、なんとか書きました。
『純粋理性批判』と『実践理性批判』の要点を具体例を交えながら平明に解説すること。
同時に、カント哲学の現代的意義や「哲学する」ことの意味にも言及すること。そのバランスを取るのに苦心しました。わかりにくかったら申し訳ありません。

AIの時代における科学のあり方、グローバル化社会における道徳の課題。カントを参照軸としながら、こうした現代的テーマについても考察を深められたのではないかと思います。

もちろん、論じ残した点も多くあります。
カントの思想体系の全体像、とりわけ『判断力批判』の意義などについては十分に触れられませんでした。美学や目的論の問題、あるいはドイツ観念論への影響関係など、掘り下げるべきテーマは尽きません。

しかしながら、カント哲学の核心をできる限り生き生きと描き出すこと。
批判哲学の精神を平明な言葉で伝えること。その意味では、一定の成果を収められたのではないかと思います。もちろん、理想を言えばキリがありません。至らぬ点も多々あることでしょう。

ですが、ここから読者がそれぞれの問いを立ち上げ、カントとの対話を重ねていってくださることを願っています。
理性の使用に勇気を持つこと。自律的に思考すること。その大切さを実感していただけたなら、この拙文も意味があったと言えるでしょう。

カントの深淵な思索の世界を、平明で味わい深い言葉で伝えること。それは容易ならざる挑戦でした。今回の執筆を通して、改めてカント哲学の豊穣さと、言葉の力の不思議さを実感させられました。星空と道徳律に心震わせるカントの感性。その感動の片鱗でも読者に届けられていれば幸いです。

批判哲学の旅は、けっして終わることがありません。なぜなら、私たち一人ひとりがその旅人だからです。
理性の使用に勇気を持つこと。
時代が移ろっても色褪せることのない、カントからの問いかけ。
このメッセージを胸に私も歩み続けたいと思います。
読者の皆さまにとっても、この散文がそうした旅の一里塚となれば、筆者冥利に尽きます。

読者の皆さまの批判的な読解を心よりお待ちしております。カントの言葉を借りるなら、「啓蒙とは何か」。その答えを共に探求していければと思います。

次回はヘーゲルを書いて哲学散文の近代哲学編はいったん終わりにしようかと思います。

ヘーゲルの次は幕末から明治にかけての日本思想を取り上げようとか考えています。

今後ともよろしくお願いします。

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