自己肯定感がありませんが何か?
スガカオルです。
前回、迷走しているというお話をしました。
前回は洋服や髪型を中心に自分らしさを取り戻すというお話でした。
まだ読んでないよって方で、読んでもいいよって方は読んでいただけると嬉しいです。
今回、それに関するお話ではありますが、皆さん自己肯定感ってありますか?
わたしはタイトルの通り、自己肯定感はない!(断言)
自己肯定感は確かに大切な安心材料です。
しかし、自己肯定感にとらわれてしまっては本末転倒なのではないかと考えるのです。
今日はわたしの自己肯定感に対する考えを中心にお話ししたいと思う。
皆さんお付き合いいただけると嬉しい。
自己肯定感はない!
書店では一時期、自己啓発本の棚の平積みは自己肯定感一色だった。
(最近は書店から遠ざかっているので未確認)
キッパリと言おう!
わたしは自己肯定感などない。
そうやってウン10年生きてきた。
今更、自己肯定感が育つとも思えない。
そもそも自己肯定感は乳幼児期からの親との愛着の中で育つものである。
大のおとなになった今更、育つ中で獲得不能だった自己肯定感をはんだごてで付けるかのように、自分の中に植え付けられるとは思えないのだ。
そういうわたしも自己肯定感を取り戻すように、試行錯誤した経験はある。
自己肯定感は言い換えれば自分の中にある揺らぐことのない安心感を材料にした土台であり、健全な自己愛である。
心の安心感、安定な心を持っている人は自己肯定感など気にすることもなく生きている。
たぶん自己肯定感の本などは手にしない。
しかし、自己肯定感の本の売れ行きを鑑みると、現代人は自己肯定感と器を満たそうともがいているのだろう。
自然に備わった自己肯定感の持ち主に、取ってつけたような努力して得た自己肯定感は太刀打ちできない。
前者のほうが圧倒的に有利である。
まるで布1枚でいる冒険を始めたばかりの勇者と鋼の鎧を装備している連戦連勝の勇者ぐらいの違いである。
意識しないでも自己肯定感を得ている人種なのだから、人生というクエストも簡単にやり遂げるだろうと想像する。
しかし、虐待や性被害などのトラウマを持っているわたしは自己肯定感など持てるわけがなかった。
自分は必要ない人間、蔑まされて当然の人間なんだと思わせられていたのだ。
取ってつけたような自己肯定感などではこの自己不全感は消し去ることなどできない。
自己不全感で満たされた状態は自らを傷つけようとする行動にでる。
実際、自分など消えたほうが良いと本気で考えていたし、生きる意味も持てずに死にきれずに生き延びてきた。
もはや、自己肯定感どころではない。
生きるか死ぬかである。
自己肯定感を持ちたいと思っても、努力して得た自己肯定感はレプリカのようなものだ。
そんなものがなんの役に立つのだろう?
わたしは自己肯定感を持たないで生きる道を模索し始めた。
自己肯定感を持てない自分を受け入れる
まず、自己肯定感を持とうと努力する世界から降りた。
一種の開き直りである。
自己肯定感がなくてもいいじゃないか!
しかし、困ることも実際にあるのは否めない。
たとえば、自分の中で良しと思えることがない。
そのために完璧を目指そうとするのだ。
正確さを求めて、正しさを振りかざし、納得できなければいつまでもいつまでも完璧な形になるまでやり遂げようとする。
その過程は楽しくない。
そう楽しくないのだ。
そう気づいてから、ふと立ち止まった。
わたしは何を目指しているのだろうと。
自己肯定感を得ようとするも、自分がないために完璧なもので落とし前をつけようと必死になっていた。
そんな日々を送り続けたいのだろうかと疑問に思い始めたのだ。
やるならば楽しくやりたい。
自由であっていいはずなんだ。
そもそも完璧などこの世には存在しないことのほうが多い。
わたしは幻想を追いかけていたのかもしれない。
話は変わるが、中3の夏にとある事情で入院し、県大会をかけた試合に出れずにチームは負け、わたしの中学の部活が幕を閉じた。
その際に、暇でしょうからと顧問の先生が本を届けてくれた。
「ぼくを探しに」
この本を読んで、当時のわたしは不完全でもいいんだと思った。
不完全でも楽しく生きていける道はあるのだと。
もしこの本が気になった方はぜひとも読んでみてほしい。
当時のわたしは小学生の頃からのチームメイトから仲間外れや嫌がらせなどのいじめを受けていた。
県大会に出ることはチームにとってもわたしにとっても目標だった。
県大会に出て、負けて、それで区切りをつけたいと思っていたのだ。
嫌だったチームメイトとも高校へ進めば離れ離れになる。
その前に県大会に出れれば、いじめのことも水に流せるのではないかと考えていた。
そうすれば次(高校)に進めるはずだと。
しかし入院したことで不完全燃焼となった。
そんなわたしは次の目標へと進むための口実を失っていた。
本を読んで、と言っても絵本なのだが、自分がケリをつけられなかったことを嘆くのを辞めた。
あいまいなものを受け入れたのだ。
完全にきれいに終わることのほうが稀である。
よくわからないけれど終わってしまうことのほうが多い。
そんなことに気づかされた一冊だった。
今、わたしは自己肯定感をという空っぽの空間を埋めようと必死になって、努力して訓練して、後付けの自己肯定感を装備するのを諦めた。
自己肯定感はないけれど、そんな自分でも楽しく生きていける道を歩んでいきたい。
時に迷い、不完全な自分に嘆きたくもなるだろう。
そんな自分さえも丸ごと抱きしめてあげたいと思っている。
あるがままのわたしでいたい
今のわたしは迷ってばかりだし、自分のことすらよくわかっていない。
それでも、楽しいと思える瞬間がある。
完璧で完全である必要はないのだ。
ただ、そこに存在しているありのままの自分だけである。
頼りなくて、ちっぽけな自分。
間違うことや迷うこともある。
そんな未熟な自分自身さえも受け入れて、心の隅で「あー、またやってるよw」なんて苦笑したりするのも楽しいのではないだろうか。
自己肯定感を持とうとして疲弊することが自分に優しい行動だとは思えない。
自己肯定感がなくても、不完全な自分をも丸ごと受け入れてあげられれば、自分を満たすことができそうな気がする。
自己肯定感はないけれどわたしは大丈夫と思えることのほうが重要な気がしている。
わたしは自分で適当なところで「いいんじゃない?」といえる自分になる。
そんなテキトーさを持って、楽しく生きられたら満点でないかもしれないが、それはそれなりにOKなんじゃないかな?
自己肯定感はない、そんな自分でもいい。
不安定さを抱えていく面倒くさい自分を楽しもうと思うのであった。
今日はこのへんで。
ではでは、またね。
スガカオル
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