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短編:【明日から先輩ではない私】

「結局、何時までにあげるんでしたっけ?」
いかにも間に合いません!と言いたげな語尾の強さで、彼は私の顔も見ずに声を上げた。
「今日中…と言っても先方の営業時間は6時迄だから…遅くとも5時とか5時半迄に…」
返事はない。
キーボードに怒りぶつけるような力強い音をさせて打ち付けている。チッという舌打ちの代わりにマウスをカチカチと鳴らして、時たまケータイの時刻をチェックしている。

彼は何年後輩だったか、入社当時は照れたように頭をかきながら、何でも言ってください!なんて可愛らしい言葉を言っていたっけな…とは言え、こう何度も修正が来て幾度となく時間に追われる業務が続けば、人も変わるか。
かくいう私も、どんなことが起きても動じない鉄の心臓がしっかり育ってしまった。外見は鉄クズでも、ハートは温かい柔らかい人間でいたいとは思っているが。

程なく背後から「スミマセン、声を荒げて…」と、後輩君が声をかけてきた。手には紅茶とコーヒーのペットボトルを持っている。
正確にはミルクティーとブラックコーヒー。

「ありがと」私は迷わずブラックコーヒーを取る。
「イライラする人はカルシウムが足りていないって子供の頃よく聞いたけど、ホントかね?」
「何ですか…それ?」
「聞いたこと、ない?」
「まったく。でも僕はミルクティーばかり飲んでいますけどイライラすることは多いですね」
私がブラックコーヒーばかり飲むのは、甘い飲み物が苦手だし、ダイエットも意識して…なんて、そんな事情なんかいまはどうでも良い。
「あと20分くらい…5時過ぎには直せます」
「わかった…ありがとう」
せっかくなので、ペットボトルのキャップを開ける。
「いただきます」

座席に戻って作業を再開しながら、彼が言う。
「先輩、明日の昼迄でしたっけ?」
怒りのタイポから、ピアノの旋律のようなソフトタッチになったが、素早い手の動きは変わらない。
「そう。昼までに挨拶を済ませて午後は有給…結局、有給消化は5日くらい残っちゃったけどね」
「この会社に何年でした?」
「6年ちょい…かな。すっかりお局だよね…」
「お局って…先輩ってたまに、おじさんみたいな発言しますよね、さっきもカルシウムがどうとか」
「おじさんは失礼ね、これでもまだ30代なんだけど」
「寿退社でしたっけ?」
「違う。親の介護なんだよね。ひとり娘だから」
ふたりとも同時にグビッと喉を潤す。
「送別会とかやらないんですよね」
「そうね、いま会社も忙しい時季だしね。君のくれたコーヒーで気持ちだけお見送りしてもらうわ」
個人の事情はさておき、この忙しい時の退社は会社的にも渋い反応だった。介護じゃ仕方ないけど、という上司の言葉も内心の舌打ちが聞こえるようだった。
「じゃあ早く終わらせて、先方に修正を返信して、ふたりで軽く送別会しましょうか…」
後輩君のくせに、そんな優しい言葉が言えるようになったのか…昔は子犬のように、ハイハイ、ハイハイと返事して、へへへと笑って
いたっけ。
「じゃあ最後に頑張って、5時迄に先方へ送って」
「5時…過ぎまででお願いします。最後まで面倒かけます」
彼はそう言いながら、5時2分前に修正を送っていた。

メールの末に、これまで担当だった私に変わり、これからは自分へ直接連絡を入れるよう、先方に促す文面まで付けていた。
鉄の心臓がちょっとだけ温度を取り戻した気がした。

     「つづく」 作:スエナガ

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