この世は居るだけで疲れるからひきこもることは自然なのでは?
仕事以外の人間関係を持ちたくないという気持ちを抱くことについて、わたしはおかしいと思わない。
むしろ財力あるから孤立した生活でも将来的に問題ないと言いきれる投稿者は恵まれている。
投稿者にとって、交流関係を煩わしく感じる人間性と不登校とひきこもり経験は関連するかもしれないものとして挙がっているところにも興味が沸いた。
わたしは不登校とひきこもりを両方やったことあるけれど、その行動をとる自分が人嫌いなのかもしれないとは考えたことがなかった。
不登校は中2の夏から中3に上がる春休みまで続いた。理由は友達がいなかったから。
ひきこもりは23歳の6月から同年9月頃まで。
理由は失恋したから。
でも、本当は理由なんてなかったのかもしれない。理由なんてものはそれまでに溜まった疲弊のトリガーに過ぎないのではないか。振り返るとそう思う。
ひきこもりの3ヶ月間はベッドから起き上がれない、食べられないという日もあったからいま考えると鬱に近い状態だったのかもしれない。
その時期はたしかに世界を絶望視していたけれど、当時もいまも、ひきこもりと人間を嫌うということとは別のものだと思っている。
単純にこの世は居るだけで疲れるから、不登校やひきこもりは防衛心からくる自己修復行為なのではないだろうか。
「生きていたくない」と思いつつも自主的に死のうとしなければ、その時期を過ぎればまた社会復帰する人も多いし。
わたしは14歳と23歳のときに2度ほどやった自己修復は、たまに罹るインフルエンザ的なものと捉えている。
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わたしは世界と関わりたくないから制作をしていたし、制作をしているときは世界と関わらないで済む感覚を味わえたから続けようと思ったけど、現実は業界という世界と関わらないとやっていけないということがわかって軽く絶望している。
出来ればコミュニティと関わらずに済む方法を探したいと思っているけどそれは無理な話なんだろうか、という旨を夫になる人に伝えた。
彼は同業者であり着実に実績を積んでいる。
そしてわたしに優しく
「作家向いてないんじゃない?」
と言った。
そうかもしれない。作家というのが、誰かと見えない何かを交換することが生業なのだとしたら、向いてないのかもしれない。
ピル飲んでもたまに顔を出す希死念慮で薄ぼんやりと死にたいし、アートな人々の話は理解できない状況が大半である。
でも作り続けていたら、いつかわたしにも作品を介して信頼できる人で構成された世界が広がっていくのだろうか、という望みは手放さないでいる。
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立ち返って考えてみるべきことは、
どうして世界(=人)と関わりたくないと思うようになったのか。
「生きていたくない」ともいつのまにか思うようになったのか。その気持ちの延長に制作があるのはなぜなのか。
わたしはきっと、人が何かを交換し合っている様を見るのが苦手なのかもしれない。
自分が感知できない領域の何か相互にキャッチ出来ている様子の人々をみると、妙な話だけれど傷つくのだ。
自分にはわからないという事実に勝手に傷つくのだ。
そして自分はその人達の領域には介入しないと決める。
(それはきょうだい児的な発想の行動なのかもしれない。だとしたらそれは己が脆弱性ではない。)
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まぁでも、自分の仕事を持っててよかったと思う。たいていの人も、仕事を介さないと話す内容なんてないだろうし、この世はみんな仕事というフックで繋がっていると考えたほうが楽である。
だから投稿者の感覚は異常でも寂しいことでもない。
平常心を保てている状況なら、それがその人の正解に沿っているのだろう。
ちなみにわたしはアートの話をされると動悸がするようになった。
アートは仕事を超えた特別に神聖なものとして刷り込まれるし、実際そうである実感を持ってしまったからやっている人も確かに居る。
アートに従事してる人もそう思ってるから何かが過剰な場面が多い。わたしには物体が内包する何かを感じ取るセンサーはあるけれど、どうしてそれが人と繋がる繋がらないの理由やジャッジに変わるのかがわからない。
ほんとうに向いてないかも!(でもやめない)
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