Yamada Asao

染色作家/博士(美術) 某バレエ用品メーカーで衣裳製作漬けの日々を送る→作家活動再開…

Yamada Asao

染色作家/博士(美術) 某バレエ用品メーカーで衣裳製作漬けの日々を送る→作家活動再開。 作品に関すること関しないこと、思い出などの私的な事柄をここに残します。

最近の記事

七夕の夜。それで、孤独は回避できたのか問題

このnoteを始めてちょうど一年ほどになる。始めたきっかけは毎年幼馴染みと行く横浜中華街にある占い館の占い師の先生に、 「孤立しやすい人生を送りがちだから、何かクリエイティブなことを発信することで回避しましょ!あ、文章書けるでしょ?それがいいわ!」 という一言にあった。 それからわたしはnoteにつれづれと投稿するようになった。 占いの先生が適当なことを言っているとは思わないけれど、noteはわたしも同じ軽さで始めたコンテンツであるし、note自体、拡散を目的にしていない

    • 今朝は謎に気分落ちたけどたぶんこれ天気のせいだわ EVE飲んで頭痛抑えたら元気になった!

      • 可愛い瀕死の狐さんがくちばしの鋭い鳥にお腹をついばまれてる夢見た こわ

        • この世は居るだけで疲れるからひきこもることは自然なのでは?

          仕事以外の人間関係を持ちたくないという気持ちを抱くことについて、わたしはおかしいと思わない。 むしろ財力あるから孤立した生活でも将来的に問題ないと言いきれる投稿者は恵まれている。 投稿者にとって、交流関係を煩わしく感じる人間性と不登校とひきこもり経験は関連するかもしれないものとして挙がっているところにも興味が沸いた。 わたしは不登校とひきこもりを両方やったことあるけれど、その行動をとる自分が人嫌いなのかもしれないとは考えたことがなかった。 不登校は中2の夏から中3に上が

        七夕の夜。それで、孤独は回避できたのか問題

        • 今朝は謎に気分落ちたけどたぶんこれ天気のせいだわ EVE飲んで頭痛抑えたら元気になった!

        • 可愛い瀕死の狐さんがくちばしの鋭い鳥にお腹をついばまれてる夢見た こわ

        • この世は居るだけで疲れるからひきこもることは自然なのでは?

          綿来かごめとは何だったのか

          綿来かごめはどうして「死」というかたちで物語から唐突に退場したのだろうか。 2021年に放映されたドラマ「大豆田とわ子と3人の元夫」をアマプラで再び観た。 唐突に起こりうるのが現実の死であると反対に、操作できる物語の中でかごめの突然の死はまったく予定調和ではなく、リアルで衝撃的だった。 綿来かごめのように、この世にあるシステムのどこにもしっくりこないと感じていて自分のサイズで適当にぼちぼち生きてる、性のしがらみからも一線を引いているキャラクターはわたしの希望だった。 か

          綿来かごめとは何だったのか

          若くなくてもいいんじゃない?(エイジングケアの話ではない)

          健康でも美容の話でもない。今朝みた夢の話。 10年前の肉体に戻って現在を生きられるとするなら、という話。 *** わたしと母は10年前の肉体になっていた Tちゃん(小中の同級生)の赤ちゃんの頃に出会う ほっぺつんつんしたり思い切り可愛がる なんだかこの世界の人々はみんなとても瑞々しく若い 帰り道、彼岸にかかる橋を渡って停めてある車に乗って10年後に帰ろうとした するとTちゃんのお母さんのようなそうでない人が、 川が氾濫してるから危ない このままの帰路では10年後に帰れる

          若くなくてもいいんじゃない?(エイジングケアの話ではない)

          嫉妬心のない人生(とは?)

          幸せそうな誰かがいたとしても、自分の幸せの取り分が減るわけではない。 他人の幸せは自分の人生に関係しないことであるはずなのに、なぜ人は人に嫉妬するのか。 東京生まれのアラサーが鼎談する「夜ふかしの読み明かし」というポッドキャスト番組がある。 アナウンサー、哲学者、芸人とキャリアが異なる3人が、小説や漫画、哲学的な問いをテーマに立てる内容が面白くてはまっている。 人はなぜ嫉妬するのか。 これは同番組の何回目かのテーマだった。 人はどういう場面で他人に嫉妬するのかというと、

          嫉妬心のない人生(とは?)

          ピル生活1ヶ月目

          28日周期の低容量ピルを服用してから最初の生理がきた。 まったく痛くない。 廃人にもなってない。 安楽死について調べたりはしていない(若干メンタルはヘラり気味ではある)。 少々の下半身のだるさや脱力、眠気はあれど、とにかくあの痛みからは解放された。 いままでの苦痛はなんだったんだろうね。 身体の痛みが緩和されたと実感する一方で、肌の感度が少し平坦なものに変わっていくようにも思う。 でも仕方ない。 アメリカンドリーム UFOキャッチャー 海岸の私有地にある生垣の小さい

          ピル生活1ヶ月目

          久野久の孤独に沿う

          この人のこと、描きたくないなと思っている。 でも同時に描けるようになるほど知りたいとも思っている。 名前以外はほとんどなんにも情報がない。 ネットが普及していなかった小学生の頃のように焦ったい無力感を抱く。 この人に関しては、あるのかないのかさえもわからないピースをひとつひとつ集めて肉付けしていくしかないんでしょうな。 とりあえず、日本に西洋音楽が導入された当時からかなりの間違いがあることを指摘した森本恭正 の『日本のクラシック音楽は歪んでいる 12の批判的考察』を読む。

          久野久の孤独に沿う

          【シェイプ・オブ・ウォーター】異種愛って良い

          アマプラで「シェイプオブウォーター」を観た。 大変にいい映画だった。 研究所に掃除婦として働くイライザが、研究所に捕らえられている人魚に音楽を聴かせながら一緒に食事をするシーンで理由もなく涙した。 なんだかとても美しいものを見たような気がした。 グロテスクと紙一重の造形美の人魚を見て、わたしはなぜか飼い猫に似ていると思った。表情に愛嬌があるのだ(瞬きするときに瞬膜が見えるところ、喉を鳴らすような声も猫っぽい)。 イライザが人魚をごく自然に恋人として愛するようになることにも

          【シェイプ・オブ・ウォーター】異種愛って良い

          4/10はきょうだいの日-セルフネグレクトについて思うこと-

          4/10は「きょうだいの日」らしい。 昨日まで知らなかった。 なぜ平仮名表記なのか。 きょうだい児のことを指すのかと思っていたら、どうやらそうではなく、障害の有無や性別の組み合わせや順序に関係なく兄弟姉妹を表すための平仮名表記らしい。 きょうだい。 きょうだい児の人は、たまに平仮名で検索をかけるのではないだろうか。 自分を何かにカテゴライズすることは好きじゃないけれど、わたしもいわゆるきょうだい児である。 精神障害と発達障害を併せ持つ姉がいる。 noteでも、きょうだい児

          4/10はきょうだいの日-セルフネグレクトについて思うこと-

          架空のリアルな女性譚「わたしたちは無痛恋愛がしたい」を読む- だからわたしはピルに頼ることにした-

          彫刻家の友人Yちゃんが薦めてくれた瀧波ユカリの漫画「わたしたちは無痛恋愛がしたい」を読んだ。月に一度、わたしは生理が来ると同時に廃人と化して布団の中でiPhoneの画面を見ることしかできなくなる。この期間に、なんとなく読むなら今だと思った。 世の女性達はみんな、どこまで己の身体を管理している(或いはしていない)のだろうか。同じ世界を並走している女性間でも、自分自身のケアにどこまで心を砕いているのかは見えづらい。 この漫画は、VIO脱毛や生理への対策といった身体にまつわる物理

          架空のリアルな女性譚「わたしたちは無痛恋愛がしたい」を読む- だからわたしはピルに頼ることにした-

          非現実の王国で(寝起き)

          額から、茹でた素麺のような白い糸が放射状に広がって伸びている。 その糸はわたしが通っていた小学校の教室の黒板を貫通して、4つの教室を渡るほど長い。 曇天か雨の日のときのような、暗さと静けさとつめたさで充満する教室。 でも嫌な感じはせず、清らかな空気で、わたしが記憶している教室よりもずっと静謐な場所だった。 ずっと前から知ってるような気がする。 ずっと前から当たり前にあるような感覚。 だから動じない。 眼前に見える何も書かれていない黒板。 それを貫通するわたしの揖保乃糸に似た

          非現実の王国で(寝起き)

          きは黄色のき、狂気のき

          ピカソが秘密裏で経営しているというカフェに行ったことがある。 そのカフェは二階建てで、ダークブラウンの屋根に黄色い壁の、どっしりしつつもファンシーな外観で立派だった(ピカソというよりロートレックっぽい趣)。 せっかく知らない土地の、誰もが知っている画家のカフェでこれからお茶をするというのに、なぜか自販機でぬるい水を買うわたしと姉。 (この国の硬貨の外形は桜だった。) 姉は水を飲んだら満足したようで、カフェの通り沿いから見えている遠くの山を登ってくると言いのこして行ってしま

          きは黄色のき、狂気のき

          夏と秋の間。探しものはハイスミスの日記。

           夏のような日差しの日々が続いている。 暦の上では秋だけど、緑が目に眩しくて、夏とも秋とも言えない季節になると観返したくなる映画がある。 『リプリー』(原題『The Talented Mr.Ripley 』)という1999年のアメリカ映画である。 これは1960年にアランドロン主演で有名な『太陽がいっぱい』のリメイク作品で、孤独で貧しい青年トム・リプリーが、富豪の息子に近づいて殺し、彼になりすますお話である。 両作ともすごく面白かった。 けれどわたしは、アランドロンが演じ

          夏と秋の間。探しものはハイスミスの日記。

          先生に会いたい

          よく迷子になる。 思考とかひいては人生の。 ばらばらで散らかったままで、収拾策がわからなくなるときが多い。 そういうときの整理のためにこうして日記なりnoteなり、とりとめのないものを書き起こしながら可視化して自分で確認している。 思考の混沌の結び目を解いて、正しい位置に戻してくれるような先生がいた。 心の深い領域まで潜るようなコミュニケーションをとれたその先生に出会えたのは、わたしが博士課程在籍中のときだった。 先生は海外で博士号を取得して、長い間外の世界(大学など

          先生に会いたい