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先生に会いたい

よく迷子になる。
思考とかひいては人生の。

ばらばらで散らかったままで、収拾策がわからなくなるときが多い。
そういうときの整理のためにこうして日記なりnoteなり、とりとめのないものを書き起こしながら可視化して自分で確認している。

思考の混沌の結び目を解いて、正しい位置に戻してくれるような先生がいた。

心の深い領域まで潜るようなコミュニケーションをとれたその先生に出会えたのは、わたしが博士課程在籍中のときだった。

先生は海外で博士号を取得して、長い間外の世界(大学などの教育機関ではないことを指す)で工芸史を研究なさって現在も第一線で活躍している。
物腰が柔らかくて優しい反面、刃物のように研ぎ澄まされた内面をお待ちの、ある意味とてもおそろしい先生だった。

月に1度先生の研究室で行われる、わたしの論文の軌道を確認するための面談の時間が、わたしはとても好きで楽しみにしていた。
先生の鮮やかさを持って、自分が作品をつくることの意味や理由を再考することができたから。

わたしは先生に初めてお会いしたときに、お互いに女性ということで、自分一人ではまったくわからないことについて質問をしてみた。「現実を生きている年上の女性」なら何か答えを知っているかもしれないと思ったのだ。

「女の人は、どうやって生きていけば良いのでしょうか。」

複雑なこの社会、ひいては世界に対して恐れていたわたしの、この不躾で抽象的な質問に対して先生は、

「100人の女性がいれば100通りあるから、これだと言えるものはありません。」

と仰った。

先生の返事は一見すると、煙に撒いたもののように聞こえるかもしれない。
でも、「わたしにも解らない」と同義のことを言っている先生の眼差しには、のらりくらりとかわすような濁りがなかった。

だから自分の深いところにあるものを差し出しても大丈夫だと思えた。

先生とは面談以外でお話する機会はあまりなかった。
かえってそれが良かったのだと思う。
先生の前では礼節を欠いた振る舞いはしたくない。

いまのわたしには、先生がしてくれたような、思考の結び目を解いて鮮やかに導いてくれる手はない。
でも、並走する物事の中にも指導があるのだということを感じている。

迷子になったとき、先生に会いたい気持ちが出てくる。
でも先生はきっと、自立したわたしをみたいだろうし、そうなれる日をきっと待っていてくれているように思う。

ポーカーフェイスで中身もめちゃクールだけれど、あたたかい人。
どこからどう来て、どうしてそうなったのかよくわからない、深遠な先生。

あなたのような人にわたしもなりたいです。
わたしの憧れの人。
いつまでもお元気でお過ごしください。


(もし億が一、先生がこの拙文noteシリーズを発見していてご覧になっていたら恥ずかしくて死ねる。でも萌える。そういうプレイとして書き続ける理由にする。)


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