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リーダーに向かない人によくあること

「リーダーシップ論」の歴史は古く、さかのぼればイエス=キリストや老子の時代からこのテーマは論じられてきました。

そう、今に始まった話ではなく、当時から「リーダー」のあるべき姿について問題意識が延々と存在していた…ということです。にもかかわらず明確な解決を得ず、またいまだにそのことについて問題意識を持たない人が蔓延っているのは、

 自らにその資質がないにもかかわらず
 何かがきっかけで権力等を持ってしまった

人達にとって都合が悪いがためにその時代時代で封殺されてきたからではないか…と個人的には分析しています。そうでなければ、時代ごとにそれなりに権威のあった学者や偉人たちが提唱してきたリーダーシップ論を率先して国や組織に取り入れようとしているはずだからです。

あえてそこに問題意識を持たず、いつの時代も取り入れようとしてこなかった…ということは、やはりそういうことなのでしょう。

時代が進んでさまざまなリーダー論が提唱される中、最も古くから「信頼を集める」リーダーシップとして説かれるのが

 「サーバント・リーダーシップ」

だと、『スタンフォード式 最高のリーダーシップ』の著者スティーヴン・マーフィ重松氏は言います。「サーバント・リーダーシップ」の提唱者として知られる組織研究者のロバード・K・グリーンリーフ(1904~1990年)は、マサチューセッツ工科大学(MIT)やハーバードビジネススクールで教鞭を執った人物です。

そこで説かれた「サーバント・リーダーシップと」は「奉仕の心」です。
支配型リーダーシップとは真逆となっています。

「従業員ファースト」で部下を優先し、リーダーが奉仕することで部下を成長させる…つまりリーダーが前に出るのではなく、チームメンバーの背中を押すことで成果を上げるタイプのリーダーが全米トップ大学で「求心力あるリーダー」として教えられているのです。

本来、日本は世界的にも「奉仕の心」が根付いているとされています。

ですが一方で、前時代的な日本の組織論とは相性が悪い考え方といえるでしょう。ハラスメントなどがいまだ横行する企業というのも珍しくありません。それだけにバツが悪いと考えるリーダーがこうしたリーダーシップ論を遠ざけて部下をいいようにコントロールしてきたのではないでしょうか。

確かにサービス業の「顧客ファースト」は大変素晴らしいものがありますが、
では、みなさんの身の回りのリーダーシップを執る人を見てみると

 「『従業員ファースト』が徹底されているか」

と問われると疑問が残る人も多いのではないでしょうか?

「serve(サーブ)」は奉仕を意味する英単語で、
「service(サービス)」の動詞です。

この言葉は、聖書でも重要な単語として扱われています。

カトリック教会では「イエス・キリストは人々に奉仕するために来た」と教わります。

新約聖書にこんな話があります。

「弟子の中で誰がいちばん偉いか」を争っている弟子たちの姿を見たイエスがこう諭しました。

「あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
 あなた方の間でいちばん上になりたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」

最後の晩餐の前にはイエス自身が「皆に仕える者」であることを示すように、弟子たちの足を洗ったそうです。

これはキリスト教に限った話ではなく、東洋文化に大きな影響を与えた中国の思想家・老子も「人の上に立とうと思うなら、謙虚な気持ちでへりくだりなさい」と述べています。

さらに「理想の指導者とは、みんなに『率いている』と感じさせない人だ」という言葉も残しており、

リーダーたるもの、一歩下がって援護に回り、部下を前に出して主体的に取り組ませなさい。部下が上司にリードされたことに気がつかず、『自分でやり遂げた』と思えるくらい、自然にリードしなさい。

と解釈されています。

リーダーが自画自賛することほど鼻持ちならないものはないと言われているのです。

イエスと老子の言葉はまさにサーバント・リーダーシップの要諦について述べた教えであり、リーダーとは古来「背中を押す人」だとされていました。

とはいえ、この「上に立つ人がサーブ(奉仕)すべき」というのは、わかっていてもなかなか行動に移せない、非常に難しい心構えともいえます。

チームのメンバーにサーブせず、自分が先頭を走ったり、「自分が前に出る」という発想に陥ったりするリーダーの思考の裏側には2つの心理があります。

「自分以外、信用できない」という心理

これは能力が高く自信にあふれたリーダーによく見られ、「部下に任せたらこのプロジェクトは失敗するかもしれない。自分がやったほうが早いし、確実だ」と考え、一番前を独走してしまう心理です。

これは一見「責任感のあらわれ」とも取れそうですが、部下を信用していないというメッセージを送る行為にほかなりません。

「部下に自分の座を奪われたくない」という心理

日本でリーダーの立場にある人の多くがプレイングマネジャーである以上、リーダーには「個人の成果」も求められます。それが、「自分以上に成果を出されたくない」という個人成果主義的な考えに結び付いてしまうのです。

このタイプのリーダーは自分が1番でなければ気に入らないのでメンバーや部下を育てようとしません。日頃からそんな思想を持たなかったわけですから、育てるスキルすら持ち合わせていません。だからなおさらメンバーや部下を信用できなくなってしまうのです。

そうしてメンバーや部下を新装しないがゆえに重要な仕事を任せることもなく、任せることがないから一定の決裁権を持たせることもありません。優秀なメンバー部下がでてきて追い抜かれ、組織の長という自分のポジションを奪われるのが怖いのです。独裁者がナンバー2が頭角を現してきた途端に、疑心暗鬼となって暗殺したりする血なまぐさい歴史からもこの心理が見て取れます。

しかし、リーダーが1人で頑張って成果が出るのは、運がよくても短期間です。

リーダーが主体的にチームを引っ張るのではなく、チームメンバーにある程度の裁量を与えたほうがメンバーの満足度も業績も上がることを認識しましょう。結果的に組織の成果も上がることになります。それで抜かれるのが悔しかったら、自分のスキルを成長させてより高い成果を上げればいいだけの話です。

他人の足を引っ張ることでしか自らの有能さを証明できないのだとしたら、それはそのリーダー以上の人物を輩出しない…すなわち

 「リーダーのスキルが組織のキャップ(上限)」

であるということです。リーダーの許容できるキャパシティ以上の組織になることは決してあり得ません。それでもいいというなら、そういう人を上司やリーダーに据えればいいでしょう。

ここは経営者の"人を見る目"次第といっても過言ではありません。

逆に言えば、メンバーや部下はそうした人事の動きを見ることで、自分が所属している企業の将来性をある程度測れるということでもあるわけです。優秀な人材に見限られたくないなら、人事には気を付けたほうがいいでしょう。

結果的に優秀な人材に任せるべきを任せ、一定の決裁権を持たせて最も高いパフォーマンスが出せる環境を用意しさえすれば、メンバーや部下たちは余すことなく実力を発揮することになります。

つまり、援護に回ることでこそ上からも下からも評価されてリーダーとしての寿命が長くなるのです。このことに気づけないままでは、組織はいずれ瘦せ細っていくだけです。

いくつかの組織論を分析したところによると、

 「『失敗してもいい仕事』に早いうちにチャレンジさせる」

というのは、非常に有効な任せ方のようです。
スタンフォードでは、しばしば

 「Fail early, fail often」(早く失敗し、たくさん失敗しなさい)

と学生に伝えます。
早いうちにたくさん失敗して、その失敗から学んでほしいという精神の表れです。ピクサーも「部下にいかに早く、小さな失敗を経験させるか」を大切にしてるといいます。大きな失敗をさせると部下は潰れてしまいますが、早い段階で小さな失敗をさせればそれを糧に成長できるからです。

助け舟を出すときにもあくまで「小さな助け舟」にとどめ、代わりにやってしまってはいけません。小さな決定権を与え、小さな失敗をさせる――これが大きな成長を促し、チームに成果をもたらすポイントです。


「忙しくて時間がない」というリーダーも、サーバント・リーダーシップと真逆のことをやってしまっている危険性があります。

これは「マイクロマネジメント」というもので、部下の仕事の細かいところまでチェックして何から何まで手を出そうとする管理手法です。部下の仕事を奪い、全部自分でやろうと、あるいは自分の思い通りにやらせようとしているために十分な時間が足りなくなります。

しかし、あまりに細かくメンバーや部下の仕事ぶりをチェックすると、メンバーや部下たちはかえってモチベーションやパフォーマンスが下がることが研究によって判明しています。

評価基準や命令系統がはっきりしているアメリカ海軍で、優れた指揮官と平凡な指揮官の部隊を比較したところ、明確な違いがありました。

優れた指揮官は「必ず目標を達成すること」を大切にします。
そのため、まずゴールに不可欠なタスクが何かを明確にしていました。
タスクについては兵士に徹底的な指導をし、こまめにフィードバックを与えます。
タスクを途中で投げ出したり、目標達成の障害となる行動をとったりする兵士には、厳しい罰を科すこともありました。ところが、ゴールに関係のない細かいルールに関しては多少規則を破ることになっても「まあいいよ」と柔軟に対応していたのです。

すなわち「本質主義」だったわけです。

一方、平凡な指揮官は、指導に一貫性がありませんでした。ゴールに不可欠なタスクとは関係のない細かい案件もすべてを自分のコントロール下に置くことを、重要なタスクのように扱うこともあったのです。

ルールにとにかく厳しく、単純に「規則だから」という理由で小さなミスにもいちいち厳しい評価を下し、かえって兵士たちのやる気やパフォーマンスを下げていました。

そもそもメンバーや部下たちを「何でもかんでも自分の思い通りに動く手足」かなにかだと勘違いしている時点でとても優秀とは呼べない人間性であることは疑いようがありませんよね。


ビジネスの目的は会社のルールを守ることではなく、

 仕事のパフォーマンスを上げ、利益を上げること

です。その目的に反したものであればルールを改めるべきであり、何が何でもルールを守ればいいというわけではありません。

もちろんルールを守りながらパフォーマンスを上げるのが第一ですが、この要件が相反する場合はルールに問題がないかを見直さなくてはなりません。

「ルールを守らない」という個人も相当ダメではあるのですが、「パフォーマンスを出させない」ルールと言うのはそれ以上にダメの象徴と言えるでしょう。

そうならないためにリーダーは

 「自分が前に出なければいけない」
 「自分より前に出るメンバーの存在を許さない」

という発想も、

 「メンバーや部下の面倒を事細かに見なければいけない」

という思考も手放し、小さな決定権を持たせて自主性を引き出すことが何より重要だといえるでしょう。

リーダーに求められるのは、前に出てチームを引っ張ることでもチームをつぶさに監視することでもなく、チームメンバーの背中を後ろから押してある程度任せる「推進力」のような役割であるべきなのです。

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