見出し画像

「教えること」と「伝えること」、そして「指導すること」はすべて異なる

リーダーあるいは部下を持つ管理職は「教える」ことと「伝える」こと、そして「指導する」ことのすべてがつかいこなせていなければなりません。

そして、その区別を知っていなければなりません。
なぜなら、それらを使いこなすことも給料のうちとして定義されているからです。


「教える」というのは、

 こちらが頭で知ったことを、相手の頭にインプットしてもらう

ためのものです。申請書の書き方や開発のプロセス、製品の詳細などは「教える」ことに当たります。いわゆる『情報』の共有です。会社は良い商品やサービスをお客さまに提供することを一つの大きな目的としています。ですから、当然ながら技術的なことや仕事のプロセス、業界のこと、お客さまについてのことなど部下に教えなければならないことは沢山あります。

基本や型、業務上最低限に知っておかなければならないものを伝達し、共有することを『教える』と言うのです。

たしかに教わり、知識を身につけないと最低限の行動すらできません。行動するための知識が必要だからです。その意味で「教える」ことで自らが持っている知識を渡すのはとても重要なことです。

ですが、「教える」だけで人は動けるものでしょうか?

そこで「教える」とは異なり、部下とのコミュニケーションにおいてとても大切なのが「伝える」ことです。「伝える」というのは、

 相手の心情に語りかける

ことを言います。思いや気持ちは「教える」とは言わず「伝える」と言いますがまさにそれです。その意味で「考え方」や「生き方」などはその根幹となる自分の気持ちを含めて、相手に理解してもらわなければなりませんから「教える」ことでなく「伝える」こととなるわけです。

相手の気持ちに作用することが目的であるため「教える」のように知識は必要ありません。「教える」モノが道具だとすると、「伝える」モノは技…と呼べるかもしれません。

どちらかだけでは何事も為しえません。

人が動くためにはどちらも必要なものなのです。


そして最後に、「教える」と混同しがちで多くの上司ができていないのが「指導する」です。

「指導する」というのは「指し示し、自ら導く」と言う意味です。

つまり、若手の部下や伸び悩む社員を目標に向かわせ、それを自力で達成するよう導かなかくてはなりません。

とはいえ、率いる…というのともまたちょっと違います。「導く」とは言い換えれば「ベクトルを示す」と言うことです。

道路の案内標識…みたいなものだと思ってください。

画像2

これ、元をただせば『道標(どうひょう、みちしるべ)』が起源となっています。どんなものかというと…

画像3

これです。これ。
みたことありますよね?

さらに古くすると

画像4

これが日本の道標の原点です。

ゴールではなく、

 「ゴールがどこにあるのか」

を示すのが道標の役割です。道を見失った旅人、途中まで来て不安になった人に「あっちにゴールがありますよ」と示し導くわけです。

ビジネス用語の"マイルストーン"は元々この道標のことをいいますね。

立ち止まってもう一度ゴールの方向を確認し、このまま進めていいかどうか判断するチェックポイントのような位置づけです。ビジネスのなかで実際に道標がおかれているわけではありませんが、その代わりとなるものが「計画」であり「スケジュール」となるわけですね。よって、計画やスケジュールを軽んじる人には、決してマイルストーンを有効に機能させることはできないわけです。

行動するための力そのものをスカラーと呼ぶのであれば、ベクトルとは『力(行動力)』『指向性(ゴールへの向き)』を加えたものといえるでしょう。そうすることで部下はどちらに進めばいいかを迷わなくて済むようになります。

ここで時々あるのが、指導というものを

「俺らの若い頃はこうだった」
「俺ならこうやって…」

など、自分のやり方を伝えることを「指導」だと履き違えている場合です。

もちろん過去の武勇伝も参考(にするただの)情報としては問題ありません。

しかし、伸び悩む相手に対して自分の成功体験をそのままその通りにやりなさい、というのは指導ではありません。なぜなら、指導することとは他人の答えを押し付けるものでは無いからです。それは百歩譲っても「教える」の領域です。


言い方を換えると、

「知識」は教えることであり
「意識」は伝えることであり
そして「意味・意義」は指導することにあたる

…のかもしれません。上司と部下とのコミュニケーションはこの「知識」と「意識」、そして「意味・意義」のすべてを相手に理解してもらうことを目的としなければなりません。

多かれ少なかれ、「人の上に立つ」という責任を負うのであればとても重要なこととなるでしょう。

多くの企業では昇進そのものにそのような要素を求めていないかもしれません。ですが昇進=上司になるのであれば、「上司」という存在には求めているはずです。ここを連動させずに別の基準で昇進だけさせてしまう企業では、結果として組織の力がどんどん弱まっていることでしょう。実際そういう企業も出てきているかもしれません。

部下をスムーズに、摩擦なく動かすことのできないリーダーや上司は「伝え」なければならないことを「教え」ていることが少なくありません。そして「指導」するべきことをしないまま、命令や指示だけを下してしまっているのです。

もちろん「教える」というのも仕事の第一歩としてはいいかもしれません。

成功事例を模倣するのは悪いことではありません。ゼロベースで始める際にいつまでもスタートが切れないままでいると業務に支障をきたします。そのため、最初は「教える」から始まってもいいでしょう。

ですが、人を動かす際に自分の知っているノウハウだけで人のすべてを動かそうとする人が一定割合で出てきます。これでは人は理想的な動き方をしてくれません。頭の良い人に往々にしてありがちなのですが、皆が皆同じスペックの頭を持っているわけではありませんので気を付けたほうがいいでしょう。

人にはそれぞれ向き/不向き、得意/不得意があって、自分と全く同じことをしたからと言ってまったく同じパフォーマンスになるとは限りません。

そういった微妙な誤差は当人にしか調整できません。だからこそ、個々人が自身の特性に合わせてチューニングできるよう「教える」だけで止まってしまうことをしてはならないのです。

「伝える」べきことや「指導する」べきことを、すべて「教える」でとどめてしまおうとすると人はどうしても

 「言われたことだけ、言われたとおりに実施しよう」

としてしまいます。自分流の答えだけ伝えて「その通りにやれ」と言っているのと変わらないわけですから当然です。「なぜそうしなければならないのか」「なぜそれで上手くいくのか」という意識まで伝わらないために自分で考えることを止めてしまいかねないのです。

たとえば、「お客さま第一」がビジネスにおいてとても大切であることは教えることではなく、伝えることです。「良い仕事をしよう」というのもそうです。

 「みんなで幸せになろう」
 「仕事を通じて社会に貢献しよう」
 「仕事の喜びを感じよう」

これらもそうです。気持ちや心のあり方については「伝える」ことが重要であり、知識としてだけわかってもらいたいというわけではありません。これは、自分も相手も理屈でなく本当にそう信じていないと伝わらないことだからです。

もっと具体的に言えば、自分がそういう姿勢で取り組んでいることを「指導する」カタチで、真っ先に見せられなければ全部『嘘』なのです。

画像1

たとえば、学校の校則で「化粧禁止」「スマホ持ち込み禁止」となっているのに、先生たちだけはなぜか許されている…何故でしょう?

学校教育法の中では

第二十一条の一 
学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

校則がすべてであり、生徒も教師も遵守するべきであった場合、規範意識を養うためにあるいは公正な判断力を養うために、「先生だけは例外とする」という判断が果たして正しいことと言えるのでしょうか?

生徒から見れば、一方的に怒る教師をみて理不尽さを感じるかもしれません。挙句の果てに、大人の言い訳「そういうものだから」「仕方ない」と言って一方的に諦めることを周囲は強要するのです。

つまりそういった学校では校則と言う情報を「教える」ことはできても、その大事さを「伝える」ことも、そうすることの意味や意義を「指導する」と言うこともできていないわけです。


こう言ったごく当たり前のことが、当たり前すぎるために意識できず、結果としてきちんと使いこなせていない誤ったリーダーシップと言うのは、「伝える」「教える」そして「指導する」の違いだけでなく、様々なところで起きていて世の中全体を見渡してみても決して少なくはない大きな問題となっています。

たとえば「怒る」と「叱る」の違いを理解しておらず、ただただ相手を罵倒し、委縮させるだけで全く育成になっていない上司…と言うのはいくつもの書籍化が為されているほど有名な話です。

リーダーとしての資質が身についていない人かどうかは、少し見ていると分かります。「教える」ことや「伝える」こと、「指導する」ことを疎かにして部下や下の者に対して「指摘」や「文句」ばかり言う人です。

相手に合ったコミュニケーションを考えず「使えない」と思った瞬間、真っ先に"役割変更""人事"等が頭の中をよぎってしまう人などがこれに当たります。

優れたリーダーはまず「伝える」ことをし、並行して「教える」ことで知識を身につけさせ、最後に「指導する」ことをします。

その先に相手の「成長」を見据えているからです。
次から次へと新人や新規参画者が増え続ける組織において、成長のための投資コストを計算することもできない上司やリーダーなんて害悪以外の何物でもありません。

じゃんけんで言えば、偉そうに"後だし"だけして勝ち誇っているようなタイプと言うのは、潜在的な能力の高低に関わらずリーダーシップの素養が醸成されていないと見るべきでしょう。

リーダーシップの技術や素養は、後天的に身に着けることができるものですが、こう言った気づきがないことには醸成されるきっかけが生まれることはありません。そういった意味で、自身ではなく、メンバーや部下の地力を底上げできるリーダーは、将来的にも期待できるリーダーシップの素養を持っていると評価できます。


またこうした「引っ張る」リーダーではなく、メンバーや部下のために尽くし、導くリーダーシップを

 サーバント・リーダーシップ(支援型リーダーシップ)

と呼びます。

これは、一部の有能な人間だけが会社を引っ張るのではなく、従業員全員の能力向上を図り、組織全体の生産性を改善して、競争力を強化しようと言う取り組みとして、昨今注目されているリーダーシップのあり方とも合致する…と言えるのではないでしょうか。

そもそも「売上」や「利益」に直接的に貢献しているのは部下でありメンバーです。

リーダーや上司というのは、確かに個人だけを見れば優れているのかもしれませんが、彼ら自身が直接的に稼いできているわけではありません。仮に稼いでいるとしても組織全体でみれば所詮1人分です。

だからこそ、企業の成長や経営の存続を考えたときに、本当に重宝すべき相手というものがわかります。その時、「教える」「伝える」「指導する」も理解できていない人を上司やリーダーに据えても目的を果たせるのかよくよく考えてみてください。

いただいたサポートは、全額本noteへの執筆…記載活動、およびそのための情報収集活動に使わせていただきます。