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フィクションとノンフィクションの狭間 / 「カポーティ」

Truth is stranger than fiction, but it is because Fiction is obliged to stick to possibilities; Truth isn't.
(真実とは作り話より奇妙なものだ。なぜなら作り話は実現性に張り付くことを強いられるが、真実はそうではないからだ)

Mark Twain

1965年の秋、雑誌ザ・ニューヨーカーに一風変わった小説が掲載された。
それは数年前にカンザス州で起きたある一家の虐殺事件を緻密に描いたものだった。加害者の生い立ちから事件、そして裁判に至るまで、徹底した取材に裏打ちされた”小説”は飛ぶように売れ、新たな文芸のジャンルが登場したかのようだった。
トルーマン・カポーティの In Cold Blood (冷血)である。
カポーティは加害者2名に何度も接見を重ね、両者が絞首刑に処された半年後の連載だった。本人はこの作品を”ノンフィクション・ノベル”と呼んで自賛したが、周囲の人たちは”ニュー・ジャーナリズム”の誕生だと騒いだ。カポーティは自らの仕事をジャーナリズムと呼称されて不満だったらしい。
さて、フィクションとノンフィクションの境界はどこにあるのだろう。
「冷血」が限りなくノンフィクションに近いフィクションだとすれば、映画「ゼロ・ダーク・サーティ」や「ハート・ロッカー」や「アメリカン・スナイパー」のような”戦争のたびに配給される系”は、限りなくフィクションに近い実話と言えないだろうか。日本経済新聞の記事なんてフィクションだらけである。
あるいは、歴史は勝者によって書かれるという史実を考えてみると、歴史というものが大きなフィクションとも言える。日本列島の正史なんて平安時代より前の時期はほとんどフィクションと言って差し支えない。つまり、国家の根幹がフィクションで出来ているならば、国民とは信者の集団と何が異なるのだろう。
事実がそこにあるとしても、誰が、どのように語るか。言い換えると、語られた途端にフィクションと化すと言った方が良いだろう。
ところで、カポーティはノンフィクションの最後に加害者たちの死刑を書かざるをえず、取材を重ねて親しくなった者の死刑を待ち望むというジレンマに陥った。この苦悩を映画「カポーティ」の主演フィリップ・シーモア・ホフマンは見事に演じ、アカデミー主演男優賞を受賞した。快演である。
カポーティは結局、この作品を最後に二度と長篇を完成させることはなかった。ノンフィクション・ノベルという新たなジャンルを切り開く度胸と自信を持った男でも、親密な関係の者たちの死刑を待つという cold-blooded なノンフィクションに耐えられなかったのだろう。

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