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1人でいることが嫌だからじゃないの? / 「ロブスター」

映画「哀れなるものたち」の感想がいくつもnoteに書かれているので、この作品を監督したギリシア人、ヨルゴス・ランティモスの出世作「ロブスター」について徒然なるままに書きたい。
こういう映画を大雑把に表現しようとすると、英語なら dystopia とか absurdity などの単語がすぐに思い浮かぶのだが、どちらもこの列島には存在しない形式なので、"暗黒郷"だとか"不条理"などの見慣れぬ単語をつかって翻訳することになる。
要するに、世の中の不具合や人間への抑圧を誇張した架空の世界だ。
「ロブスター」では、妻に出て行かれた主人公デイヴィッド(コリン・ファレル)が、とあるホテルに連行されてくる。45日以内にパートナーを見つけてカップルとならない限り、好きな動物に姿を変えられてしまうーー、という、のっけから安部公房やカフカのようなトンデモ設定である。もちろんこうした設定は、そのことを通して観客に効果的にメッセージを伝えるためであり、これを寓話という。
さて、デイヴィッドはホテルから脱走し、"独身者"たちが集う森へ避難する。するとそこでは恋愛が禁止されているのだが、"近視の女"(レイチェル・ワイズ)を好きになってしまう。やがて2人は一緒に森を脱走する計画を立てるも、独身者たちのリーダーの女(レア・セドゥ)にそのことが露見してしまう。リーダーは近視を治すという口実で女を医院に誘い出すと、失明させる手術を受けさせてしまう。失明した女がリーダーを刺殺しようとすると、リーダーは身代わりにメイドの身体を差し出す。デイヴィッドはリーダーを拘束して森に置き去りにすると、失明した女と2人で街のレストランまで逃げてくる。デイヴィッドは女との間に common (共通していること)を探し、やがてレストランのトイレにステーキナイフを持って行くと、みずからの目を刺そうと逡巡するーー、という物語である。
この118分がよく出来ていると感じたのは、ホテルという恋愛を強制されているところでは恋愛感情を抱けなかったデイヴィッドが、それを禁止されている森で恋をしたということだ。強制は人間らしさを失わせ、禁止しても人間は止められるものではない。つまり、この映画でデイヴィッドは人間らしさを持って"いた"ということだ。ホテルの人物たちは希釈した溶液のようにどこか薄っぺらく、言われるがままに流されている。これは現代のデートや結婚に関する痛烈な批判だろう。すなわち、独身者であることが嫌だからという否定から始まっているのではないか、ということだ。本当にその相手が好きになったのか、ということがラストシーンへの伏線である。
デイヴィッドは持って"いた"、と先ほど書いたのは、街を出て失明した女との間に common を探し始めたからだ。なぜ common が必要なのか。完全に違っていたっていいじゃないか、という健康な観客はともかく、最近流行りの Tinder などのデートアプリのように、なにか相手との common を求める風潮があることもまた事実だ。この列島でも"共通の趣味"なんて言い回しがあるほどだ。言い換えると、共通の趣味がなければ会話にも困るような奴と時間を共にしたくないというのが僕の率直な感想なのだが、こうした common のある方が助かる人も多いのかもしれない。
ラストシーンでデイヴィッドは躊躇っている。本当にあの女との common のために失明できるのかーー。
ところで、こういう話を"ありえない"と切り捨てることは簡単だが、ちょっと考えてみてほしい。日本列島の大部分では、いまでも"適齢期"だの"もうすぐ30"だの"売れ残り"だの、このホテルと何が異なるというのだろう。みんな好きな人と結婚しているのだろうか。これは世の中からの強制としてはたらく圧力であり、なぜこうした風潮が根強く残る国なのかと言えば、あの人もしたからじぶんも、という周りの人との common をみんなが欲しがっているからだ。
トンデモ設定だが、これは案外、身の回りで起きていることなのである。

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