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祖父と私。10年以上同じ家に住んでいたが交わした言葉は数えるほど。私は祖父が苦手だった。そんな祖父の死②

その日祖父はいつも通り朝から部屋でテレビを見ていた。

祖母のアルツハイマーが進行し脳梗塞も見つかり、特別養護として入院生活がはじまってから、これまで暗黙の了解で出入りを禁止されていた1階リビングが祖父の主な拠点となった。

しかしそれ以外は変わりなく、祖父は自分で自分の飯を作り、二槽式洗濯機で洗濯をして干した。

ほかに変わりがあるとすれば、大腸がんが見つかったことだ。手術で大腸を切り取り、ストーマ(人工肛門)を着けることになるかも、と話していたが、なんとかストーマは免れた。

しかしそれからの祖父は酷かった。なんだか便の臭いがするなあと思っていたら、家中に便を撒き散らしているのである。

前回の記事でもお伝えした通り、祖父は変わり者なので細かいことは気にしない。

トイレのドアノブになぜか便がついている。廊下になぜか便が落ちている。

私は大腸がんになったことがないので分からないが、あんなにも家中に便を巻き散らかさないと生きていけなくなるものなのだろうか?本人は気づかないのだろうか?

とにかく安易に家のなかのものを触れることはできなくなった。よく観察し、嗅いでから家の中を歩き、ドアノブに触れる。
母は文句も言わずに掃除をした。

やがて台所も大便と蛆虫と祖父に占拠され、台所にすら近寄れなくなっていた。それでも母はもくもくと掃除をした。リアルたまごっちである。私はおやじっちが好きだったけれど、リアルたまごっちは精神的に負担にしかならない。

祖父は時代劇がお気に入りで、あの日の朝もおそらくj:comの時代劇チャンネルを見ていたにちがいない。
私は自室のこたつのなかに潜り込んで眠っていた。

正午ごろだろうか。血相を変えた母親にゆり起こされた。

「じいちゃんが事故にあったって!!警察署まで行かんといけん!!」

かなり気の動転した様子の母。車が運転できるのか心配だったが、私は留守番することになった。

朝まで下の部屋で、大音量で時代劇を見ていた祖父。昼頃になるとだいたいいつも近所のスーパーへ買い物に出かける。

”事故ってなんの事故?”

”列車に跳ねられたって!!”

まさか家族が、それも祖父が列車に轢かれてしまうなど想像できなかった。
母は祖父の無事を祈って警察署へ向かったが、私はもうだめだろうと思い、兄弟に連絡をした。

亡くなるときは大腸がんが原因で亡くなると思っていた。
朝まで下の部屋に居た人が、いない。テレビも消され、しんと静まり返っていた。台所にも人の気配はなく、二層式洗濯機は静かにたたずんでいる。

母がずいぶん憔悴した様子で帰ってきた。祖父は即死だったらしい。顔を見たが、確かに祖父だったと。
線路の上に横たわっていたところを轢かれてしまったのだとか。

それからまた警察が家に来て、遺書がないか祖父の部屋やリビングを見て回った。
それらしきものは見当たらなかった。ましてや自分の便をそこかしこに放置するあの祖父が、自殺など考えられない。

祖父は国鉄の特急の車掌だった。分厚い時刻表をいつも自分のそばに置いていた。
母の話によると、大阪あたりまで一緒によく列車に乗って行ったらしい。
祖父は列車が好きだった。

フェンスが一部なくなり線路の上を通り抜けることが出来る場所で祖父は亡くなった。地元の人がよく使うスーパーへのショートカットの道で、私も幼いころからそこを渡っていた。

買い物袋や通帳が入った手提げを持っていたので、自殺というよりもなにかの拍子にすべって転んだか、そこで持病の心臓の発作が起きたか、当の本人が亡くなっているので真相は分からないが、元国鉄の車掌が列車に轢かれて死ぬとはなんとも皮肉な話である。

取り乱してどうにもできない母の代わりに、葬儀会社を調べて手配し、親戚に連絡してまわった。

小さな家族葬だった。

朝まで下の部屋で、いつもの大音量で時代劇を見ていた人が、その日の夕方には死体となって帰ってきた。
”朝には紅顔ありて夕べには白骨となる身なり”とはまさにこのことだった。
顔は綺麗だったが、頭はつぶれており、葬儀会社の人がうまく誤魔化してくれたのだと思う。

通夜があって、葬儀を終えた。

喪主であるはずの母は、祖父の遺影となった写真を抱きかかえて歩くことすらままならなかった。その肩を支え、私もなぜか涙が止まらなかった。

私は祖父にはやくいなくなって欲しいと幼い頃から願ってきた。
しかしそれは突然に訪れ、亡くなってから燃え滓になるまでこんなにも早いのかというくらい、葬式というものはあっけなかった。


そのあっけなさ、そして母の大変さを知らぬ人たちが集まり祖父の死を悼み、手を合わせている。
なんとも不思議な光景だ。
母の手はいつももくもくと掃除をしてきた手だった。
死を悲しむ権利があるのは、その人が死ぬまでずっとそばにいて身の回りのことをしてあげた者だけだ。
皆なにを悲しんでいるのだ。
なぜ手を合わせる。
皆おのれの後悔のために手を合わせるのだ。”安らかに”と願うときは屍人の向こうに己の”安らか”を見ている。投影しているだけじゃないか。
”なにもしてやれなかった”とか、する気もなかったことを思い描きながら。おとなしく経を聞いていると”なにもしてやれなかった”気持ちが少しは報われるのだろうか。

私は母の手を見て泣いていたのだった。

もちろん私の中にも祖父に対して悲しい、もっと普通に関わり合いを持ちたかったという後悔もあるが、それ以上にもうこれで悩まされずにすむのだと思うと、ほっとする以外になかった。

火葬された祖父の足は、脛骨のあたりがぐちゃぐちゃで元の骨がどんな形を成していたのか分からないくらいだった。頭蓋骨に凹みがあり、轢かれた瞬間に吹き飛ばされて頭を打ったのだろうか。

そう思うと、その列車を運転していた車掌さんや乗客の方々が不憫でならなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいである。
賠償金を払うことになるだろうと思っていたが、JRからはなにもなかった。

あっという間に初七日を迎え、あっという間に49日が来た。

ある日学校から帰ってくると、家の前にまだ若気な男性が立っていた。
名刺を渡された。新聞社の人だった。

「今回の事故についてどう思いますか。JR側がフェンスを設置していなかったために起きた事故じゃないですか。JRへの意見などありますか」

私は適当にあしらった。
「祖父がご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「なにかあれば名刺の連絡先にお願いします」

と残して男は去った。

私は母にばれないように名刺を細かく千切って捨てた。
たしかに、あそこにフェンスがあれば誰も通り抜けることができないので線路上の事故というものはなかったかもしれない。

しかしあそこにフェンスがあれば、私はいつまでもくもくと掃除をする母を見なければならなかっただろうか。そう考えると恐ろしい。
もしかしたらいまこの瞬間も、祖父が生きていた可能性がゼロではないのだ。
私はもう耐えられなかった。祖母が徘徊を続けた家。祖父が大便を巻き散らかし、蛆虫のわく家。仕事もせず家の掃除だけをする母がいる家。
耐えられなかった。

新聞記者に私の気持ちのなにがわかると言うのだ。

寡黙で変わり者の祖父の死は、なぜ線路上に横になっていたのか分からぬ沈黙と田舎ではなかなか珍しい列車による軋轢死という結果に変わった。

祖父が亡くなってから母に頼み込み、すぐにトイレと台所をリフォームしてもらった。まるで新築の家のように、トイレと台所だけは明るく綺麗になった。
そうすると料理をするのが楽しくなり、ネットを見たり母に教えてもらいながら台所に立つようになった。

そんな私とは裏腹に、母の落ち込みようは変わらなかった。
口先では「早く一人になりたい」とよく言っていたが、実際私が東京に来てからは空の巣症候群になってしまうのだった。

私が高校生のころに人間関係で仕事をやめてしまった母。
祖父はいなくなり、祖母は施設におり、これから母はどうやって生きていくのだろう。
お小遣い程度でも稼いだほうがいいんじゃないだろうか。

私は当時のバイト先の店長に頼み込んで、母の面接をお願いした。
最初は店長も母も渋っていたものの、なんとか面接まで持ち込み、母は人当たりはいいのですぐに採用となった。
仕事の覚えもいいし、人当たりの良さから大学生の若い女の子たちや、同じ歳くらいのマダムたちともすぐに打ち解けた。
私と同じ時間帯でシフトに入っていると、ふたりとも妙に他人行儀に接するのがおもしろかった。

その間に愛犬が死に、施設にいた祖母が亡くなり、そして私は同じシフトに入っていて、一緒に作業している母の背中にむかって

「東京に行こうかな」

と放ったのである。

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