思考すること。言葉を紡ぐこと。
マーケティングや広告の領域に留まらず、ありとあらゆる動画コンテンツがインターネットに溢れている。YouTubeやTikTokだけではない。InstagramもX(Twitter)も、ニュースサイトやレシピサイト、雑誌コンテンツ、クラウドファンディングに至るまで、今や動画がコンテンツの主役となっている。タイパを志向して動画は倍速再生する、といった消費行動も当たり前になってきた。
インターネット以前から、文字情報(新聞)→画像情報(雑誌)→映像情報(テレビ、映画)といった形でオールドメディアも進化を遂げてきた。インターネット界で起こっているのも同じで、ブログや掲示板、Twitterといった文字媒体からInstagramやPinterestなどの画像媒体、YouTubeやTikTokなどの動画媒体へと、情報収集の機軸が変化している。意図的に遮断しなければ、今や何らかの動画コンテンツに出会わない日はないと言っても過言ではないだろう。
そんな世の中の動態を無視するわけではないが、僕自身は相変わらず文字を中心とした情報接触を好む。子供の頃はともかく、大人になり特にインターネットの世界に触れるようになってから、テレビや映画などを見るのに必要以上にエネルギーが必要になってきた。
理由としては、視覚と聴覚を同時に奪われるのが嫌だから、というのが大きい。非日常として映像世界に安心して没入できる映画は一定受け容れることができるものの、日常の中で目と耳を奪われることに苦痛が伴うのだ。
いわゆる「ながら族」程度にコンテンツと距離を保つことが自分にとってちょうどいいのかもしれない。音楽を聴きながら読書をする、ラジオを聴きながら勉強をする、みたいなライフスタイルが沁み付いている。
これは自分が何かを生み出す(クリエイトする)シーンでも同じだ。
音楽やラジオ、カフェでの隣のテーブルの会話などをBGMにしながら文章を書くという行為が昔から好きだった。高校の頃、文芸系の部活に参加していたこともあり、言葉(テキスト)によるアウトプットが苦ではない。
単語や文脈を吟味しながら書いては消し、また書いては消し、ちょうどいい表現を追求する。また、持続的に言葉をアウトプットすることで、更に思考を深める。書くことと考えることは自分にとっては同時的で、かつ同等に価値ある行為で、そこには常に何らかのBGMや街並みの風景が、二重露光されたフィルムの絵のように重なり、しかもお互いを邪魔することなく溶け込んでいる。
思考すること。言葉を紡ぐこと。この二つが僕自身の基本的価値観を支える一対の支柱になっている。僕は言葉を紡ぐことで思考し、思考することで言葉を紡ぎ出す。とりわけ個人的で、とりわけ重要な営みである。
過去には小説や詩、エッセイなど、形態を変えながら僕自身が紡ぎ出した作品が数多くあるけれど、それは恐らく僕自身の(どこか未熟で身勝手でもある)思考を磨いていく上で零れ落ちた破片のようなものだ。その中間生成物、あるいは産業廃棄物みたいなものを誰かに見せてみたり、何らかの媒体で発表してみたりしては自己肯定感を補強していた。僕の紡ぐ言葉は完成品ではなく、完成を目指す過程で削ぎ落された木屑でしかない。ここが文章(完成品)を追求する作家やライターとのスタンスの違いだろう。
通勤電車の中でノートを広げ、小さな文字で何かにとりつかれたかのように文章を書きなぐっていた20代の頃を思い出す。当時は極めて無自覚に言葉を連ねては自分自身を癒していた。言葉は思考の結果生まれるものではなく、思考のきっかけを与えるために自らブレインストーミングで書き出した付箋の連続体でしかなかった。その付箋の束を眺める中で新たなアイデア、気付きを得る。それをまたアウトプットする。その連続だった。多角的で多面的な思考が苦手だった僕を思索の世界へと誘うカギが、生み落とされた言葉たちだったのだ。
紡ぎ出された言葉に意味はなく、紡ぎ出す行為によって得られた思考は記録されることなく、僕の記憶領域の遠い場所に劣化したかたちで保存されている。そこには当時のおぼろげな風景、あるいは音楽のようなものが色を失って横たわっている。
僕の根幹にあるその原風景を敢えて視覚化するなら、カート・コバーンがギターを抱え、青い目で物憂げに宙を見つめる姿みたいなものかもしれない。僕の人生に最も大きな影響を与えたアーティストである彼の歌、音楽は、僕自身の思考と言葉の関係性を表すメタファーだ。
思考すること。言葉を紡ぐこと。
あるいは言葉を紡ぐことで思考すること。
そこから、何らかの「引っかかり」を記憶すること。
この営みは恐らくこの先も続いていくのだろう。
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