「わかる」ということについて

超相対性理論「わかるの深淵を覗く」、全三回を聞きました。
自分の人生で起きていること(過去に起きたこと)と照らし合わせながら思考を巡らせることができるこのポッドキャスト番組が大好きです。(同じ回を何度も聞き直したくなるポッドキャストです。)

このnoteで私が四回に分けて書いたクルックフィールズでの体験、そこからの生活変化(コンポストを始め、畑を耕し始めたこと)は、まさに今回のテーマである「わかるの深淵を覗く」の内容にぴったりはまる話でした。
環境問題について、知識としては、本を読んだり、音声コンテンツを聞いたり、遡ればクルックフィールズへと連なるap bank fes(環境問題に深く取り組んでいたフェス)にも、夫婦になる前の妻と一緒に2005年から2012年まで毎年参加していました。しかし、具体的な行動には移せていませんでした。ある意味、大衆のアヘンとして環境に関する本を読んでいたとも言えると思います。

知識を取り入れているだけだった私が、クルックフィールズで過ごしたことをきっかけに、毎日生ごみを300gコンポストに入れてかき混ぜ、更には畑を耕し始めるという具体的な行動に移せたことは、まさに理屈で考えるというよりも直観的にやりたいと思えたからでした。 

<理屈は外側、違和感は内側>
邪知/とらわれた思考
妄知/論理的に頭を使っている状態 
真知/考えない状態 ※体感的に分かっている状態

知識/知っている
見識/意見を持っている
胆識/意思を持っている

<言語化することの危険性>
没入の大切さ
外側から見て分析的に見てレポートすることの愚かさ
言語を捨てて体感する
理屈を捨てる

超相対性理論「わかるの深淵を覗く」(前編)

クルックフィールズへの宿泊後、自分の中での何かが大きく変わった感覚がありました。変わったというより、自分の中に何かがインストールされた感覚に近かったです。
前編で康太郎さんがおっしゃられていた「新しいノリが芽生えて、過去のノリが消える」という言葉に近いと思います。(この話、どの友人と共有できるのかな、、と思いました。まずは妻と共有できていることを幸せに思っています!)

中編での深井龍之介さんがおっしゃっていた下記の言葉にもあてはまる感覚もあるのですが、正直、自己破壊が起きたとまで言えるかはいまいち分からないです。これから徐々に起きていくのかもしれませんし、コンポストと畑を耕す止まりになってしまう可能性もあるかもしれません。(例えば、今すぐ環境に配慮された洋服を身に着けるように行動変容しよう!とまでは思えていません、。)

自己破壊がない=わかっていないと定義した場合
・理屈だけ理解しても自己破壊が起きていない
・前提が変わっていないから物事の認識の前提まで到達していない
・意思が切り替わる

超相対性理論「わかるの深淵を覗く」(中編)


正直、今回私が何をわかったのかについては言語化できていないのですが、コンポストや畑を耕すことが “気持ちの良いこと” だということは伝えることができます。
「わかるの深淵を覗く」全三回で語られていたことと、今回の体験に強く関連を感じたので書き残してみました。

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