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読書のススメ

移動中、ふと周囲を眺めると。

眠っている人を除けば、ほぼ全ての人がスマートフォンを眺めている。誰かと連絡をとっているのか、動画や音楽を楽しんでいるのか、何かについて検索しているのか、人それぞれだとは思うのだが。
当の私は何をしていたのかと言うと、文庫本を読んでいた。紙のやつ。バス・電車・飛行機などの移動、カフェに行くとき、その時間に応じて1-2冊の新書なり文庫本なりは必携である。

いつの間にか私は、すっかりマイノリティだと気づかされる。

日常を彩るエンターテインメントは多様化し、「タイパ」「コスパ」の良いものが優位になって久しい。本を読む、まして紙の本を買って読む、なんていうのはタイパ・コスパの良い行為ではないのだろう。
タイパ・コスパを突き詰めるなら死ぬのが一番だ、というのも頷けるがまぁ極論だ。


リーディング原体験。

実家も、今まで引っ越しを繰り返してきた一人暮らしのアパートも、いつも大きな本棚があり、絵本や小説、マンガ、実用書…がぎっしり詰まっていた。意味がわからなくても、表紙や挿絵を眺めたり、装丁を指でなぞるだけで多幸感に包まれた。
学校や公営の図書館にもよく足を運んだ。
騒然たる学校生活における、ささやかな静謐。人の少ない図書室、書架に差し込む陽光、年代物の紙のにおい。
ページを捲れば、物語はいつでも快く招き入れてくれる。学生時代とくべつに不幸だったわけでもないが、「こことは全く異なる世界が存在する」ということは、いつ何時も私を救うあたたかな逃げ道だった。


「紙」の本を読むということ。

社会人以降の読書においては、知識や経験が増えたぶん、自分の体験や現況、感情と照らし合わせながら読むことが多くなった。
「これは先日、会社の先輩に言われたことのようだな。」とか「あのとき友人が伝えたかったのはこういうことなのかも。」とか。
昔はウジウジしたり卑怯だったりする登場人物にイライラしながら読んでいた物語も、自分自身にもウジウジしたり卑怯なところがあるのだと知ってから読み返すと、また異なる味わいがある。

それぞれの特殊体験を知る。


その日の気分によって、読みたいもの・読みたくないものの選り好みも激しくなった。ヘヴィなもの、ライトなもの、ウェットなもの、ドライなもの。
レビューに頼るのもいいが、本屋さんにて表紙や帯や背面のあらすじを眺めて、自分のヤマ勘総動員で「キミに決めたァ!」選書をするのも一興である。

若き天才が眺める、世界の過去と未来。


超名作アニメ『PSYCHO-PASS』にて大好きな悪役・槙島聖護が「紙の本を読むということは、自分の感覚を調整するためのツールであり、精神的な調律である」という旨の発言をするシーンがあり、大きく頷いた。
そう、行きつ戻りつ紙のページを繰る。
あの作業こそが、私にとっての読書なのだ。

先達の人生観。


ここまで読書至高派を装いつつ、

紙の本を読め読めnoteにしたいわけでもなく、私はアニメや漫画、映画、Youtubeも日常的に楽しんでいる。動画のほうが手早く得たい知識を得られて、便利だと感じることは沢山ある。だが、流れゆく映像や切り取られた情報は、あまりに速く過ぎ去り、平面的だ。
そこには温度や奥行きや香りや味わいを、享受するゆとりは少ない。

書評や解説系の動画もまことに結構だし、何かを嚙み砕いて、わかりやすく解説できる、というのは素晴らしい能力だと思う。
しかし「この動画を観れば、もう本を読まなくてもいい!」などのパワーワードにはこう返したい。

それを決めるのは、あなたではないはずだ、と。

たぶんね。

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