Kaz.K

国立大工学部→旧帝大医学部 脳神経内科医 クリニック院長

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国立大工学部→旧帝大医学部 脳神経内科医 クリニック院長

最近の記事

救急病院に勤めているとゴールデンウイークや年末年始って一番忙しい。救急から離れてやっと休めるようになった。

    • 勤務医か開業医か、みたいに言うけど病院だってデカい開業医に過ぎないので勤務医は開業医の下で働いているようなもの。 それより病院勤務か診療所勤務か、公立か民間か、の区分のほうがより問題だと思うのだがそういう話はあまり出ない。

      • 大阪大学医学部学士入学試験「不」合格体験記

        私が受けたのはもう35年以上も前の話になる。今でも学士入学試験はあるが、制度、科目が全然違う。 だから今の人には参考にならないだろう。 まあ不合格体験記だからもともと大して参考にならないだろうが昔の雰囲気を書き残しておこうと思う。 当時は医学部の学士入学試験は大阪大学だけであった。 定員は20人 通常の大学入試の後の3月半ば頃に試験があった。 試験は、というと 一次試験 英語 第二外国語(フランス語またはドイツ語) 数学 物理 化学 生物(大学1-2年レベル)  小論文

        • 医者になるのにどんな適性が必要か

          適性なんていらないかもしれないです。 まあ、中には犯罪を犯して医師免許をはく奪されるような人もいますから、そういうのは当然論外ですが。 なぜかというと、医者の世界って進む科によって全然違うのです。 なのでどんな人でも大抵は自分に合っている科というものがあります。合っているところに入ってそこそこ給料もらって地道に生きるだけなら医師免許さえあればだれでもできます。 逆に言うと合わない科もあるので、そういうところには現実問題として続けられません。 例えば美容外科に行けば年収が高

        救急病院に勤めているとゴールデンウイークや年末年始って一番忙しい。救急から離れてやっと休めるようになった。

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          旧制高等工業学校と旧制工業大学

          日本では大学に工学部があるのは当たり前だが、明治のころは世界的にも珍しく、日本でも大学ではなく高等工業学校での教育も盛んであった。 日本では工学はおそらく明治時代には最も輸入したい学問であったろうから真っ先に帝国大学にも設置されたのだろう。 しかし、帝国大学工学部の方は国土経営、理論家の養成が目的で、製造現場および工業教育の指導者養成を目的とした学校もまた別に必要であった。これが高等工業学校である。 東京帝国大学に対し、高等工業学校として初めに東京高等工業学校が設立された

          旧制高等工業学校と旧制工業大学

          昔の学歴フィルター

          昔は学歴フィルターどころか指定校制度があったのだ。 みんな忘れてしまったのか今は話題にもならないが、1970年代は学歴フィルターどころか大企業は堂々と求人する大学名を指定し公表していたのである。指定校制度と言っていた。 だから志望する会社のリストに自分の大学の名前がなければエントリーできずにそれで終わりであった。白黒はっきりしてわかりやすいといえばわかりやすいが、今よりも卒業校が就職にもろに影響していた。 いい会社に入るにはいい大学に入れ、と当時は親が子供によく言っていた。

          昔の学歴フィルター

          博士の就職は大変だが

          かつては博士になったにも関わらず研究者として就職ができない人をオーバードクターと呼んでいた。 当時もオーバードクターが多量に発生し問題になっていた。今も昔も変わらない。 私が高校のとき(1980年頃)学校にオーバードクターの理科の先生がいた。 その先生は 都内有名進学校→東大理1首席→東大理学部 →大学院、英米大学留学→博士号→就職なし →いまいちな中高一貫校の理科教師 という経歴であった。 実際、昔から文学部、理学部の卒業生は一般企業の就職はなく、卒業後中学高校の教

          博士の就職は大変だが

          昔の研修医の話

          またも昔話になるが、今度は医者になった後の話である。 今の話もしたいのだが昔のことから説明していかないと今こうなっている理由がわからないと思うからだ。 昔の研修医(制度?) 今は研修医を育成するシステムがあるのだが、私が医学部を卒業した平成のはじめ頃は、研修医制度というものが建前上あるということになっていたが、ほとんど無いも同然であった。 一応形式としては2年間の研修をすることになっていた。 具体的にはどんな状況だったかというと 医学部を卒業し国家試験に合格すると初めは研

          昔の研修医の話

          昔の早稲田大学理工学部入試

          昔の受験シリーズ またいってみよう。 昭和58年2月 早慶の理工学部を受験した。 なぜ慶応でなくて早稲田の話かというと、早稲田の入試が今まで受けた試験の中で一番印象的だったからだ。慶応のことはあまり覚えていない。 当時私立理工学部は早稲田が最難関であった。 センター利用というのはなかった これは早稲田だけではなく、全ての私立がそうであった。 大学個別の入試だけ。 多くの大学は推薦入学と個別のペーパーテストのみ。シンプルであった。 入試配点が変だった 当時の早稲田理工

          昔の早稲田大学理工学部入試

          早稲田と慶応の話

          昔の話になるが私が受験生であった40年前は慶応より早稲田の方が人気があった。 慶応はお金持ちのお坊ちゃんが行く学校と思われていたように思う。 40年前は自分は貧乏人だと思っている人が今より多かった。多くの受験生は自分には早稲田の方が合っていると思っていたのではないか。うちは貧乏だが慶応に入っていいんだろうか?という感じだ。実は昔から慶応より早稲田の方が授業料が高かっのだが。 というか、いいとか悪いとかどっちが上とか下とか金があるとかないとか好きとか嫌いとか、そういう問題

          早稲田と慶応の話

          東京帝国大学工学部 世界初の大学工学部

          世界初と言っても、そもそも当時、「大学」と名前の付く学校は当時世界で東京帝国大学だけ(多分)なので当たり前といえば当たり前である。 ここでいう大学とはユニバーシティのことだ。 東京大学(The University of Tokyo)に工学部がある。今では普通だが、ユニバーシティに工学部を入れたのは東京帝国大学が世界初と言われている。 私が某工学部の学生であった頃、授業でアメリカ留学の話が出た。 アメリカ留学ならまずハーバード(Harvard University)ではな

          東京帝国大学工学部 世界初の大学工学部

          東京出身者の医学部受験

          地方出身の神童は医学部に行けというが、東京出身者はどうしたらいいのか。また、首都圏の受験生はどうしたらいいか。 昔からそうなのだが不景気になると医学部受験を勧められ、医学部の偏差値も非常に高くなる。 少し前までは多くの国立大医学部は東大理1より難しかったというのが前提である。 簡単に医学部に行けというみなさん、以下を見てどう思います? 関東各地の医学部 東京東京大学理科3類 東京医科歯科大医学部 慶応義塾大学医学部(実家が小金持ちなら) ・・・・・・・ もう笑うしかな

          東京出身者の医学部受験

          ある中堅中高一貫校の話

          私は中学受験で中堅中高一貫校に入学した。 当時(約50年前)は東京の男子校の入試日はほとんど2月1日に集中していて、2次募集も一般的ではなくほぼ単願に等しかった。 当時はまだ渋谷教育学園は女子校で、聖光学院、浅野、市川など千葉、神奈川の私立はさほど進学実績がよくなく、東京からわざわざ受けに行く学校でもなかった。 一発勝負であったことを考えると失敗できなかったので合格確実なところを受けたのである。 入学したもののあまり嬉しくはなかった。自分にはレベルが低すぎた。 だから中学位

          ある中堅中高一貫校の話

          医者がヘッドハンターに会ってみた話

          医者の就職は一般の会社と違うので興味のある方は下のリンク先を見ていただきたい。地域や時代によっても変わっていっているのだが、以前はこんな感じであった。 40代半ば頃、医局人事で派遣された田舎の病院に勤めていた。 立ち上がったばかりの脳卒中センターのスタッフでほとんど休みもなく激務であった。死ぬかと思った。 出身地でもないこの田舎で死ぬわけには行かない。このまま激務に耐えて働く理由はなかった。 ちなみに私は脳神経内科医である。脳外科とよく間違われるが内科医なので手術はしない

          医者がヘッドハンターに会ってみた話

          戦前の大学医学部 旧帝大と旧制六医科大学

          以前医学部の学閥について書いた。 旧帝大は割と知られているが旧制六医大についてはあまり馴染みがないと思う。 しかし、医学教育史上、また今の医療事情を知る上で大事な学校群である。 江戸時代は医師国家試験などなく、医師は自称であった。 多くは漢方医であった。 明治の初めになると各地に県立病院と県の医学校が設立され各県ごとにバラバラに西洋医学教育がなされるようになったが、教育レベルも教員の質も担保されていなかった。 近代的な西洋医学をきちんと教える学校を整備する必要があった。

          戦前の大学医学部 旧帝大と旧制六医科大学

          戦前の学校制度(2) 高等学校〜帝国大学

          前回は中学校までの話であった。 ここから後に紹介する学校は、戦後は大学になった。 それを旧制では高等学校とか、高等〇〇学校、〇〇専門学校などと呼んでいたから話がややこしいのだ。 戦前の高等学校 旧制中学卒業後はどうなるか、というと、その上は当初は高等中学校と呼ばれている学校があった。 高等中学校はのちに単に高等学校という名称になる。 旧制の高等学校は戦後の新制高等学校とは違い、今で言えば大学教養部にあたる学校である。 たとえば今の駒場東大は旧制第一高等学校である。 旧

          戦前の学校制度(2) 高等学校〜帝国大学