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旧制高等工業学校と旧制工業大学

日本では大学に工学部があるのは当たり前だが、明治のころは世界的にも珍しく、日本でも大学ではなく高等工業学校での教育も盛んであった。

日本では工学はおそらく明治時代には最も輸入したい学問であったろうから真っ先に帝国大学にも設置されたのだろう。
しかし、帝国大学工学部の方は国土経営、理論家の養成が目的で、製造現場および工業教育の指導者養成を目的とした学校もまた別に必要であった。これが高等工業学校である。

東京帝国大学に対し、高等工業学校として初めに東京高等工業学校が設立された。初めのうちは1校だけでも学生募集に苦労していたが、日清戦争後経済が急拡大し現場の人材が大量に必要になり、同様の高等工業学校が全国に続々と設立されていった。

旧制高等工業学校→旧制工業大学


各地に高等工業学校が設立されていく中で旧制東京高等工業学校、旧制大阪高等工業学校の2校は評価が高く、それぞれ旧制東京工業大学旧制大阪工業大学に昇格した。旧制工業大学である。(現在も大阪工業大学という大学があるが、名前が同じだけで無関係な大学である。)

これら2校は旧制高等工業学校の卒業生に対し、今でいえば大学院教育をする学校になったのである。
つまり、旧制高等工業学校が現在の地方大学工学部に当たり、旧制東京工業大学は学部を持たない大学院大学に相当するだろう。
大学なので旧制高等学校からも進学することはできた。
今でも地方国立大学工学部を卒業し大学院から東京工業大学に入る人がおり学歴ロンダなどと悪口を言われることもあるが、戦前はそれが普通のコースであった。

旧制高等工業学校出身者はほとんど一般教養に当たる授業を受けておらず(特に今で言う文系科目)、工業大学ではさらに専門的になるので、いわゆる教養のない専門バカ学生が大勢発生してしまうという問題があった。
逆に旧制高等学校出身者は一般教養のみ学び工学系の科目を全く履修しておらず一から教える必要があったらしい。
そのため一緒に授業ができず別クラスにしていたようである。


その後旧制大阪工業大学は大阪府医学校と統合し大阪帝国大学になり帝国大学のカテゴリーに入った。
こちらは基本的に旧制高等学校卒業生が入学する学校になったが旧制高等工業学校からも受け入れていた。
他の帝国大学工学部は原則旧制高等学校卒業生のみの受け入れだったようだ。
昔は帝国大学進学コースと、工業大学進学コースは原則的に分けられていたのである。

帝国大学では、旧制高等学校でしっかり一般教養を教え、その上で帝国大学で高度な専門を教えるというのが基本的な考え方で、中世大学とドイツ近代大学のシステムの折衷であった。
ある意味それが、教養のない旧制東京工業大学、東京商科大学などの単科大学との差別化であった。
今の大学の格付けでも旧帝大が一段上の扱いなのはそのためなのだろう。
特に旧制高等工業学校→旧制東京工業大学と進学すると、この間にいわゆる文系科目を全く学ばないことになり低く見られたようだ。また、旧制高等学校から帝国大学でなく工業大学に進むと落ちこぼれのように言われていたらしい。
旧制単科大学といえども大学自体が日本に数校しかなかったので旧帝大より格下扱いとはいえエリート校ではあったのだが。

逆に旧制高等学校→旧帝大に進学したエリートに対しては無駄な教養主義、単なる権威付けではないかという批判が昔からあった。


戦後、旧制東京工業大学は今で言えば大学院大学であったのを、学部部分を新たに新設する形で新制東京工業大学となり現在に至っている。今でも大学院が中心である。
その時同時に一般教育部門も設立し、戦前のシステムに対する反省もあるのだろうが、旧制高等学校とも異なる一般教育を施すようになったようだ。(うまく言っているかどうかはわからない)

その他の高等工業学校も戦後は地方の大学工学部となり現在に至っているが、私が学生の頃は地方国立大工学部には修士課程までしかなく、博士課程まで設置されていたのは医学部を除くと戦前から大学(つまり今の制度では大学院に当たる)であった大学とお茶の水女子大学くらいであった。


博士課程が多くの国立大学に設置されたのは比較的最近の話なのである。
地方国立大学工学部は戦前は高等工業学校であったので学部に重点があり、更に研究し博士を目指す学生は旧帝大や東工大などに入るというシステムも戦前からであり、今もその名残があるとも言える。





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