大阪大学医学部学士入学試験「不」合格体験記

私が受けたのはもう35年以上も前の話になる。今でも学士入学試験はあるが、制度、科目が全然違う。
だから今の人には参考にならないだろう。
まあ不合格体験記だからもともと大して参考にならないだろうが昔の雰囲気を書き残しておこうと思う。

当時は医学部の学士入学試験は大阪大学だけであった。
定員は20人 通常の大学入試の後の3月半ば頃に試験があった。

試験は、というと

一次試験
英語 第二外国語(フランス語またはドイツ語)
数学 物理 化学 生物(大学1-2年レベル) 
小論文

一次試験合格者30人に対し
二次試験
英語論文解読 面接
で、最終合格者20人

というものであった。

当時は大学での研究内容などは一切問われなかった。
まあ聞かれたところで「プラズマ流体の真空磁場中での安定性」というようなテーマなので医学になんの役に立つのかなどど言われたら困るのだが。
学部を卒業していることが受験資格であったが文系の合格者は一人もいなかった。

二次試験は点数化されず、実質一次試験の結果だけで合否が決まると言われていた。
落ちた10人は翌年受験し合格するケースが多かったため二次試験は「顔見せ」などと言われていた。

大学一般教養科目の習熟度を問われるという、まるで戦前の大阪帝国大学医学部入試のようであった。

私は共通一次やセンター試験のようなマークシート試験が苦手である。だからマークシート試験無しで受けられることは魅力であった。
なぜマークシートになると変な点をとるのかは自分でもわからない。
現役の時医学部に入り損ねたのも、直接の原因は当時の共通一次の失敗であった。
更に医学部再受験のときも旧帝大志望とは思えないような低い点数を取ってしまい、足切り寸前であった。
(結果はすべて合格であったが)
早稲田理工の入試でも物理の解答方法がマークシートではないが穴埋め式だったので非常に心配だったのだ。

と言っても当時は合格者の7-8割は東大か京大の出身者で、受験者も同様に7-8割が東大京大の出身者であった。しかも修士博士修了者もいる。
マークシートを避けられるから簡単な訳ではない。
入試制度がかなり変わった今でも同じような感じらしい。

私の大学からは稀に合格者が出ていた。というかこんな試験があることをみな知らないと思う。成績証明書作成を大学教務課にお願いしたら、「ああ、この書類久しぶりに見た!」と言われた。

その年は120人くらい受験していた。

受験対策なのだが、ほとんど何もできなかった。
入試問題頒布会なるものがあり(今もあるらしい)受験対策が載っていたが、とてもではないが大学4年生をやりながらできるものではない。ドイツ語に生物って、自分は機械科だし・・

結局工学部の卒業審査が終わり、医学部の一般入試がすべて終わって今更ながらドイツ語と生物を勉強する感じになった。
これじゃ受かるわけないし、昔の早稲田の記念受験じゃあるまいしこの俺が答案を白紙で出すなんて・・そのためにわざわざ大阪に行くのも面倒だし、受けるのやめようか・・
と思ったのだが大学卒業も決まったし、せっかく願書も出したし暇だったので受けに行った。


当時まだ阪大医学部は中之島にあった。古い阪大医学部も見納めであったので良い記念にはなった。
ネットがない時代、再受験生と交流する機会はなかったが、東大京大卒の再受験生は結構いるものだと思った。

試験の方はと言うと、答案白紙は避けられたが、結果は惨憺たるものであった。
数学と物理はなんとかなったがドイツ語のこじつけみたいな訳や生物の苦し紛れの解答はひどい。恥ずかしいし受けなきゃよかった。
と自分では思っていたのだが一次は何故か合格していた。


一次試験合格発表日の翌日が一般入試の合格発表で、かつ阪大の二次試験であった。予定では阪大不合格を確認し大阪見物して翌日一般入試の合格発表を見てゆっくり帰ろうかと思っていたのが明日は医学部教授と面会である。変な答案を見られて恥ずかしいがここまで来てしまったらもう逃げて帰るわけにもいかない。

翌日の試験では午前に英語医学論文を読んで設問に答え、午後から面接があった。
午前試験が終わり、一つ前の受験番号の方と一つ後ろの番号の方と一緒に学食で食事をすることになった。
お二人共京都大学の方で一人は修士、一人は博士修了とのことであった。

特に博士の方は就職がなくて困っておられ、この試験がだめなら後はアメリカに行くしかないかなあ・・などと話していた。博士の就職難は昔からである。
当時は第二次オイルショックで就職難であったが、この年あたりからバブルが始まり、私のような工学部4年生などは行きたい会社にほぼ無条件で入れたというのに。
折角京大に入ったのに学部、修士時代は就職難、その後バブルになったのに博士なのでまた就職難、と昔も就職氷河期みたいな大変な時期があったのだ。
だからこの頃も東大より医学部と言っていたし、実際受ける人もたくさんいたのだ。

肝心な面接は、というと論文を読んでどうでしたか?医学部の考え方について行けそうですか?もし合格したら研究したいですか臨床したいですか?基礎研究はどうですか?どんな研究をしたいですか?などと前向きな質問が来たのでこれはいけるかと喜んでいた。

試験が終わって慌てて一般入試の方の合格発表を見に行き合格を確認したが、すでにあたりは真っ暗で誰もおらず合格発表の雰囲気ではまったくなくて、なんの感動もなく一人ひそかに喜んで終わった。まあ、医者になれることだけは決まった。


阪大学士入学の最終合格者発表の日はこれまた工学部の卒業式でもあった。
卒業証書をもらって急いで家に帰り新幹線に乗って大阪へ
結果は不合格であった。あの面接は何だったんだ??
結局フルで試験を受けて大阪まで3往復しホテル代かけて不合格。折角の努力(ちょっとしかしてないけど)と金と時間が無駄になった。まあ、阪大には縁がなかったのであろう。


ちなみに前後のお二人は合格であった。みんな医学部に行けてよかったと思うことにした。









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