10.2 青木宣親の愛と尊敬に包まれた引退〜何よりも人を残した偉大な選手のラストロード〜
青木宣親が引退試合のプレーを終えた。
2024年10月2日。
満員の神宮球場で、敵味方問わずたくさんのファンに囲まれ、溌剌としたプレーをみせる彼の姿は、心から野球を楽しむ野球少年のようだった。
「1番センター 青木」
皆にとってあまりにも久しぶりなこの響きというのは、かつて慣れ親しんだファンとしては特に胸に込み上げてくるものがあったが、当の本人の喜びようったらもう、こっちまで嬉しくなるようなものだった。
それは改めて、この試合が特別な試合であることを示していたし、引退に際してこのような素晴らしい機会を得られることに対する、青木から全てに向けてのリスペクトと、優しさや気遣いをもを感じさせる反応と感じた。
この日を迎えるまでに、愛弟子である村上宗隆が幾度となく流した涙や、様々な選手たちのインタビュー記事を目にする中、青木がプロ生活を通して積み重ねてきたことの偉大さを、ダイレクトに感じずにはいられなかった。
青木宣親はただ素晴らしい成績を残した選手としてではなく、多くの人にとても大きな影響を与える稀有な存在として、愛と尊敬に包まれグラウンドを後にした。
金を残し、名を残したのはもちろんのこと、何よりも人を残した選手として記憶される。
スワローズファンも、多くの野球ファンも彼のことをこれからもずっと覚えているし、これからもふとした時に、彼の話を自分のことのように楽しく話すのだろう。
青木のことを思うと、まだ神宮に空席が目立っていた時代のことを思い出す。
レギュラーを取り、多くのヒットを打つようになってからの青木は、紛れもなくスワローズの顔であり、球界を代表する選手だった。
気が強そうな目をしていて、茶髪の髪型もスワローズっぽくて、六大学出身なのもあわせてまさに神宮にピッタリな選手だなと、子供ながらに思った記憶がある。
当時青木と言えば、ヒットを打つわ、ホームランもあるわ、盗塁もあるわと、何でも出来てしまうスター中のスターだったが、残念ながら彼が打つようになっていく成長の軌跡とともに、ヤクルトスワローズが強くなっていった訳ではなかった。(国際大会の出場で日本代表を引っ張る青木には痺れさせられたが、その頃のスワローズはあまり強くはなかった)
特に青木が背番号1を背負うようになる前後の時期は、福地寿樹や川島慶三、畠山和洋、ガイエルなど、個人的にも大好きで面白いメンバーが揃い粒揃いでもあったが、外野席の前の方(外野指定席)が平日は大体空席で、外野スタンド全体の下半分が不自然に空いている状態が通常営業というような時代でもあった。
石川や館山は頑張っているものの、なかなか他がついて来られない、強いチームであるとはお世辞にも言いづらいような時期で、青木は圧倒的な個人成績を残しつつも1人気を吐いているようでもあった。
入団当初から、主体的で求道者のようにこだわりを持って課題や目標に挑んでいる様子が伝わってきていたが、だんだんとその凄みが、若干他の選手とは違うオーラになっているような、個人的にはそんな印象を抱いていた。
その頃私は、ヤクルトに青木は何かもったいないようにも感じてしまっていた。
スワローズ栄光の番号を背負ってから、球場で観た背番号1番の青木でよく覚えていることは、センターの守備についた時に、ファンの声援に頻繁に応えていた様子だった。
回の合間、攻守交代の際にバックスクリーン付近の通路から子供達が「青木さーん!」と声をかけると、スタンド側を見て会釈してくれたり、「聞こえてるよ」というような仕草を向けてくれていた。
特に当時、全然お客さんが入っていなかったオープン戦の時なんかは、声も丸聞こえでよくファンの声援に応えてくれていたのを思い出す。
(あまりにお客さんが少ないので、もう退団されてしまっためがねの応援団のお兄さんが、子供に応援の旗を振らせてあげたりしていたのも思い出す。)
求道者のオーラと、気さくにファンに応えている後ろ姿。少し不思議なギャップを携えて、2012年に青木宣親は海を渡って行った。
アメリカでのプレーも、成功や金銭が確約されている訳ではない中で、自らの力を振り絞り多くのチームに請われる選手として活躍をした。
毎年安定した成績を残し、ロイヤルズ時代にはワールドシリーズでもプレー。ヒューストン在籍の年にはリングも獲得している。(多分もらえる資格があって、もらっていますよね??)
野球選手として最高峰の舞台での戦いに身を投じ、安定や停滞ではなく成長や挑戦を求め続ける姿勢が伝わってくるキャリアだった。
青木がMLBでプレーしている間に、我らが東京ヤクルトスワローズはと言えば、時にとんでもない高低差の成績を叩き出し、特に96敗した年は観る方の感覚も鈍り「まさか96敗もしていたのか!?」とシーズン終わりに思ったのを覚えている。
そんなチームを救うべく、全てを手にしたようで未だ満たされなかった夢を叶えるために、2018年に青木宣親はスワローズに帰ってきた。
入団会見に現れた青木は、昔日本でプレーしていた頃の青木とは全く違った人のように見えた。
すっきりとした短髪に、清々しい顔つき。たくさんの修羅場を潜り抜け、自らの道を求め根拠のある自信を深めてきた心技体のバランス、心からの情熱がすごく伝わってきた。
やってくれるかもしれない。
2015年のリーグ優勝の後、なんとか再度日本シリーズを目指すことができないかと、山田哲人がいるうちに何とかしないといけないと思っていたが、彼の言葉からは「いけるかもしれない」と漠然とした期待を抱かされた。
一方で、メジャーから帰ってくる選手は、以前よりも打てなくなってしまうようなことが今まで他の選手では多くあったが、青木に対してはそんな心配は必要なく、杞憂に終わった。
初年度から期待に応える活躍を見せたのと同時に、これは感覚の話だが、チームの空気が何となくだが良くなっているような雰囲気がした。
ベンチからの声だったり、熱気だったり、チームとして戦う姿勢が増し、元々のスワローズが培ってきたファミリー感にエッセンスが加わった。
そして、プレーはもちろん彼のチームに対する姿勢に薫陶を受けた若手選手たちがどんどんと花開いていく。
自主トレを一緒に行った村上宗隆は、スワローズだけではなく球界を代表する選手となり、前人未到の記録を打ち立てた。
宮本や西浦、丸山や長岡などチームを引っ張った、引っ張っていく選手がチーム青木で鎬を削った。
こういった一つ一つの積み重ねが、セリーグ連覇と日本シリーズ優勝に繋がったのではないかと、勝手な想像でしかないが思っている。
激戦が繰り広げられた旧グリーンスタジアム神戸で、川端慎吾のタイムリーヒットがあの地点に落ちたのも、もしかしたら様々なことをチームとして、個々人が重ねた結果、野球の神様が微笑んでくれたのかもしれないと思ってしまう。
強い時のスワローズは、いつだってそうだ。
勢いがあり、決まってそんな時は皆がノっていて、最後には勝っている。
不確定要素や、予想だにしなかったことを次々に飛び越え、勝ちに不思議な勝ちありを地でいく。
日本シリーズを制した時、青木宣親は泣いていた。石川雅規とともに。
2人にしかわからない共鳴がそこにはあったのだろうか、何を言っても安っぽく陳腐になってしまうかもしれないが、純然たる感慨がそこにはあった。
私も、その姿を見て涙した。
テレビの中で、紺と緑のかっこいいユニフォームをきたスワローズの選手たちが、20年ぶりの日本シリーズ優勝を成し遂げた。
ずっと信じ続けたことを、ずっと信じ続けてくれた選手たちとともに叶えることができたこの思いは、言葉では言い表すことができないものだった。
愛すチームで更なる伝説を築いた青木は、かつて少し近寄り難い求道者のオーラを纏っていた青木ではなかった。
空いている神宮のセンターで、ファンの声に気さくに応えていた時のような、気のいい兄ちゃんのようだった。
そして10月2日、いろんな思い出が交差する。
皆が各々の思い出に心揺れ動く。
そんな夜にも、ヒットを放った後のあの美しいフォロースルーは流麗で、文字通り躍動した青木宣親は自分のためではなくて、みんなのために涙を流していた。
その映像をテレビで見て、私は心から感動したし嬉しかった。
長い間神宮で見てきた選手が、こんなにも皆に愛されている。
偉大な選手、人として評価され、現役の時間を全うできるプレーヤーはとても少ない。
最後のスピーチの際に「自分の生き方は間違っていなかったと出会った方々が日々教えてくれました」と話していたのが、この試合やこれまでの引退ロードを見てきた今、まさにそうだと思った。
ありがとう青木宣親。
たくさんの嬉しい記憶、熱くなる記憶を与えてくれた。
スワローズの23番、1番は特別なんだと教えてくれた。
技術の先にあるものが何かはわからないけど、あなたが示した道を、これからも多くの人が探していく。
私もその1人でありたい。
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