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今どれだけ恵まれているか知るために、一度失ってみる

私は今、自由に動く手を使ってこの文章を書き、見える両目を使ってこの文章を認識し、はっきりとした意識で文章を推敲している。

平日には朝自分のまだ寝ていたいという気持ちとは無関係に早く起き、ストレスの中働き、人と関わりながら、家族とともに生活している。

仕事や世の中に対して不平不満は当然のように心に湧いてくるし、どんな人間関係にもストレスは付きものだ。

人間には必ず欲があり、欲しいものや欲しい境遇がどんな状況になっても永遠に心に湧き出してくる。ストレスフリーな仕事、有り余る財産、自由な時間、もっと素晴らしい人間関係、新しいもの。

人間誰しもそんな「今自分が持っていないものや境遇」に心を捉われ、日々心をざわつかせている。これは人間なので至って普通のことだと思う。

では、私が今持っているものを一つずつ手放さなくてはならないとしたらどうだろう。実際に手放す必要はないし、手放したくもないので頭の中で一度手放してみる。

この自由に動く両手が使えなくなったとしたら。両目を失明してしまったら。意識のない植物人間になってしまったら。

そうならなくとも、例えば今の仕事を失ったら。今の人間関係が無くなったら。家族を失ったら。

何もかもが、その欠点を含めて自然に有難く思える。今の仕事も、パートナーも、家族も、住むところも、持ち物も、手に入れたとき心底嬉しかった。何より全て自分が望んで手に入れてきた。

それなのに、人は良いものごとに対して驚くほど早く慣れてしまう。それがやがて普通のことになり、飽きてしまい、いつの間にか欠点に目が行き、他と比較し、日に日に不平不満が頭をもたげてくる。

そうすると私たちは「遠くにある新しくて素晴らしい何か」を求め、足元にある欠点だらけで不完全な宝物達をぞんざいに扱い始める。

そして、実際に失ってはじめて宝物の有り難みを知ることになるのだろう。

新しいものを次々と手に入れ続けたいという人もいるだろう。けれど、それは絶対に辿りつかない動き続けるゴールを追うだけの人生だ。

どれだけお金を稼げば、貯めれば気が済むのか。どれだけ美しいパートナーや良い家、良い車を手に入れたら気が済むのか。どれだけ美味しいものを食べれば満足するのか。どれだけ遊べばもう充分だと言えるのか。いつ手に入れたものを本当に楽しめるのか。

人は「今持っているものより、もう少し良いもの」を手に入れれば充分だと言うだろう。けれど実際にそうなっても同じことを繰り返すだけだ。

生きる上で絶対に必要なものが不足してさえいなければ、欲にストップを掛けることは今すぐにでもできる自分次第のことだ。

何でも他人と比較して、内から外から湧いてくる欲望につつき回され、自分に本当に必要なものと見栄や浪費で欲しいものの区別もつかない。そんな人生を送りたいだろうか。

本当に貧しい人というのは、宝物を少ししか持っていない人のことではない。無限の欲に飲まれ、いつまで経っても満足できない人のことだ。


足るを知り、今ある宝物との時間を、過去も未来も締め出して今存分に楽しむ。それが人生を良く生きるためにできる、私たち次第のことだ。

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