コラム

〈小林秀雄  試論〉

3.  初期小林秀雄をめぐって   その(1)
 
   初期小林秀雄は、作家や作品の解析と批評家の自意識を等価とみなすことを批評の方法とすることで、批評家としての出発を遂げた、と言ってよい。これは、ある作品を論ずる批評の言葉の描く軌跡は、批評家の自意識の描く軌跡に他ならないということを意味している。小林秀雄がボオドレールを、引き合いに出した言い方をを借りれば、(ボオドレールの批評の言葉は、すなわち小林秀雄の批評の言葉は)『それはまさしく批評ではあるが、また彼の独白でもある。人はいかにして批評というものと自意識というものを区別し得よう。』。「様々なる意匠」。というように批評行為とは自意識の運動の言語化ということになる。自意識とは自己を志向対象とする意識、自己関係に終始する意識のことだが、小林秀雄の自意識という概念受容の背景には、宿命的な矛盾があったように思われる。それはおそらく西欧の思想や理念が移植されるときに、決まって起こる日本の精神的な風土からの影響によっている。だから小林秀雄の身に起こったことは、多かれ少なかれ日本のインテリすべてが共有する事件だったと言っていい。ただ、小林秀雄が大きな矛盾を抱えたのは、思想が存続するには思想の核、つまり思想の肉体とでも呼ぶべきものが必要だということを、よく知っていたからである。例えば次の言葉はどうか?すでに小林秀雄が批評家として確固とした地歩を築いていた昭和十年の批評文〈私小説論〉の有名な一節。『フランスでも自然主義小説が爛熟期に達した時に、私小説の問題があらわれた。パレスがそうであり、続くジイドもプルーストもそうである。彼らが各自ついにいかなる頂に達したとしても、その創作の原因には同じ憧憬、つまり19世紀自然主義思想の重圧のために形式化した人間性を再建しようとする焦燥があった。彼らがこの仕事のために、「私」を研究して誤らなかったのは、彼らの「私」がそのときすでに十分に社会化した「私」であったからである。』〈彼ら〉=〈ジイドやプルースト〉が誤らなかったと断定しているからには、誤ったものたちがいたのだろうか。『わが国の自然主義文学の運動が、遂に独特な私小説を育て上げるに至ったのは、無論日本人の気質というような主観的原因のみにあるのではない。何を置いても先ず西欧に私小説が生まれた外的事情がわが国になかったことによる。自然主義文学は輸入されたが、この文学の背景たる実証主義思想を育てるためには、わが国の近代市民社会は狭隘であったのみならず、いらない古い肥料が多すぎたのである。新しい思想を育てる地盤がなくても、人々は新しい思想に酔うことはできる。ロシヤの19世紀半ばにおける若い作家たちは、みな殆ど気狂いじみた身振りでこれを行ったのである。しかしわが国の作家たちはこれを行わなかった。行えなかったのではない、行う必要を認めなかったのだ。』
では何処の?誰が?どのように誤ったのか?
                                              (この項続く)

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