コラム

〈小林秀雄 試論〉

4.初期小林秀雄をめぐって~その(2)

  19世紀半ばのロシヤの若い作家たちのことはいったん置くにしても、小林秀雄がここで言及しているわが国の作家たちが、「これ」即ち「自然主義文学の運動」を「行う必要を認めなかった」にもかかわらず、「自然主義文学」を輸入し「遂に独特な私小説を育て上げるに至った」経緯は、わが国に外来思想が見当違いに受容され流行しても、その「新製品」が輸入されると根付くこともなく、速やかに忘れ去られてしまう、わが外来思想受容史お定まりの型の、親切を尽くした解説になっている。小林によれば、わが国の作家が、「行う必要を認めなかった」のは、彼らが、「長く強い文学の伝統(的技法)のうちに」生きていたためである。それがために、「外来思想は作家たちに技法的にのみ受け入れられ、技法的にのみ生きざるを得なかった。受け取ったものは、思想というよりむしろ感想であった。」ということになる。日本とはまさに「長く強い」伝統を誇る、希に見るハイテクの「王国」であった、と軽口を叩いても仕方がない。わたしは、再び、はじめの設問に返ろう。「私」の研究において、誰が、どのように誤ったのかという小林の説明に耳を傾ける時、何処か不透明な印象を感じざるを得ないのはどうしてだろう。何故、わたしは、この有名な一節の「誤らなかった」という言い方にひっかかったのか。もちろん、つまらぬ言いがかりをつけたいわけではない。例えば次の引用文、「鴎外と漱石は、私小説運動と運命をともにしなかった。かれらの抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察していたのである。」ここでも、「不具」という言葉に同じようにひっかかる。すぐ、胸に来る答えは、小林の「誤らなかった」とか「不具」とかいう言葉の出所に躓いたのではないかということである。これらの言葉は、西欧の文学思想に明瞭な判断の基準がある、という前提なしには出て来ない。もちろん、わたしのこの言い方は、インテリにとって世界に冠たる西欧という小林秀雄の生きた時代と、現在のように西欧も日本と同様単なるローカルな一文化圏に過ぎないという時代の感じ方の差異から、出てくるものだろう。だがわたしが気になったのは、小林が、結果としては世界に冠たる西欧文化の子である個人主義文学(思想)の観点から、わが国の私小説作家やプロレタリア作家を批判しながら、「私小説論」全体を一瞥する限りでは、そこで論じられているすべての文学的な党派を一蹴するというやり方ではなく、いささか隠微とも見える
迂回を繰り返しつつ「私小説は亡びたが、人々は〈私〉を征服したろうか。私小説はまた新しい形で現れて来るだろう。フロオベルの〈マダム・ボヴァリィは私だ〉という有名な図式が亡びないかぎりは。」という結論に至っているという点だ。こういうやり方は、おそらく当時ありうる限りの最上の批評の姿だ。         ここで、小林が本当に擁護したかったのは、西欧の個人主義文学(思想)という名辞ではない。すでに骨肉と化した、小林秀雄の中のもう一人の「私」であったに違いない。小林にとって「私」とは、言うまでもなく自意識という思想の核(コア)であった。あらゆる文学(思想)的な党派を「様々なる意匠」として相対化しながら、ついに、この「私」だけは、相対化しえなかったのは、自身の肉体の存在を疑えないように、自身の思想の骨肉の存在を疑えなかったからであった。けれども、当時の文学(思想)界でこの小林秀雄の内奥を洞察しえたものが、幾人いただろうか。わが私小説作家たちは、「私」が社会化したがために現実の世界から自意識という内面の部屋の中に追い詰められ、作品を造形せざるを得なかったフロオベル、プルースト、ジイドらの「制度化した」思想との苦悩を思い描くことができず、作品の源泉を「日常生活」を生きる自分の周囲に求めるということで自足した。またプロレタリア作家たちにとっては、これも西欧から輸入されたマルクス主義思想に心酔することが、創造することの前提条件であり、文学を政治化することで政治をも曲解し、文学の本質から離れていった。しかも彼らは、わが国の私小説作家たちが、作品造形の源泉としていた「日常生活」を決して手放そうとしなかった。ただ彼らは題材を作家個人のいささか誇張された日常生活の荒廃から、農村や工場という労働現場に転換することで、ブルジョア・リアリズムと異なるプロレタリア・リアリズムを素朴に提唱しただけだ。リアリズムを日常生活の忠実な描写として単純化して捉えた点において、両者は表裏一体である。要するにこの両者が理解すべくもなかったのは、「あらゆるものを科学によって計量し利用しようとする」近代ブルジョアジイの欲望を産み出した当時の西欧社会の現実であり、また、その増大する欲望の支柱となった科学実証主義という社会理念であった。田山花袋が技法的に模倣しようとした「モオパッサンの作品も、背後にあるこの非常な思想に殺された人間の手に成ったものだ。」という言葉は、理念や思想にイカれることの恐ろしさを、骨身に徹して知ったものの言葉である。現在の日仏近代文学比較研究の水準や達成度からみて、小林秀雄の「私小説論」がどう受け取られるのかということは別にしても、小林秀雄の言葉が何処か不透明な印象を与えるのは、外来思想を了解するその事以前に、つまり現実の日常世界に不透明な幕がはりめぐらされているからだ、執拗な迂回を強いられたのは、多分小林秀雄を包んでいるその皮膜が幾重にも巡っていたからだ、と理解する方が順当なのかもしれない。「彼ら」(フロオベル、ジイド、プルースト)が「誤らなかった」という言葉の裏には、西欧近代を代表するフランスの作家たちの研究する「私」と日本の作家たちの研究する「私」の現実的背景の、ということは思想的な背景の相違についての小林のやりきれない思いが横たわっていた。それは鳥からも獣からも異類として追われるコウモリの感じるようなジレンマだった、と。
 だがわたしはここでもう一つ違う理解の仕方をしてみたい。「私小説論」全体に漂っている不透明感と歯切れの悪さの印象を、小林秀雄自身の内奥に差した翳りの表徴として読んでみたいのだ。そのためには小林が「私小説論」を発表する三年前(昭和七年)に書かれた一篇の小説のような批評文〈Xへの手紙〉に触れてみなければならない。
                                             (この項続く)

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