コラム

〈小林秀雄 試論〉

5.Xへの手紙(その1)

 「私小説論」の全体に漂う不透明な印象、もっと違う言い方をすれば、強烈な自意識の輝きが弱まり、鈍い翳りが漂っている。この翳りが小林の実生活のどんな体験に由来するのか、という疑問が入口である。
  人は現実の中のどんな衝撃的な体験でも、その意味を真に納得するまでには、いくらかの歳月を必要とするようなのだ。つまり、その後過ごす歳月の合間、合間にその体験を反芻すること、もちろん反芻するかどうかは個々人の勝手なのだとしても、その体験からナニカを汲み取り、思想として深化するということは、そういうことだ。年譜によると小林秀雄は、1928年(昭和三年)の五月に元、中原中也の恋人、長谷川泰子との同棲生活を清算している。この翌年四月に「様々なる意匠」という批評文で雑誌の懸賞に応募し二席に入り、問題の「Xへの手紙」が発表されたのが1932年(昭和七年)の九月、三角関係の清算から四年余りの歳月が流れている。批評のような私小説「Xへの手紙」を書くことで、自身の三角関係を公にしたことは、この体験を小林の自意識が潜り抜ける時期が訪れたということを意味している。「様々なる意匠」(1929)で『批評の対象が己であると他人であるとは一つのことであって二つのことではない。批評とはついに己の夢を懐疑的に語ることではないのか !』と述べた小林秀雄の自意識という〈時代意識〉への強烈な信頼が、「Xへの手紙」(1932)以後の「私小説論」(1935)では『私小説は亡びたが、人々は〈私〉を征服したろうか。私小説はまた新しい形で現れてくるだろう。フロオベルの〈マダム・ボヴァリィは私だ〉という有名な図式が亡びないかぎりは。』というようにどこかシニカルな陰影を漂わせているのは、単に『ジイドの転向問題を契機として起こった行動主義文学運動』やわが国の私小説の伝統がプロレタリア文学に征服されたからだという認識が、小林の自意識という光源を皮膜のように覆っているからではない。「私小説論」結末の〈図式〉という言い方は、まるで小林秀雄がかっての〈己れの夢〉を手にとり、苦々しい思いを込めて眺めているようなイメージを喚起させる。わたしたちの近代はいかに欧米と自己同一化するかということを、国家自らが課題のように背負ってきた。これを歴史の必然と呼ぶにしろ、呼ばないにしろ、その課題実現の手足にされた個々の知識人が、自らの到達すべきイメージと現実の自身のイメージの落差を、劣等意識として受け取ってしまうことには必然性があった。そして近代知識人の自意識とはこの劣等意識のことであった。もし憧れの対象としての外来文化に、自己同一化しようとするわが国の近代的な意識の試みが挫折するその仕方に定型があるとすれば、小林秀雄もその定型をまぬがれていないと言うべきである。この比較文化的な面から眺められた近代的な自我の物語を性愛のドラマとして描くなら、初期小林秀雄の自意識が抱えた矛盾は、同性を言い換えれば自己を性愛の対象にしたいと熱望するものが、異性を言い換えれば他者を対象にせざるを得ないという、資質に促された観念的志向と宿業のような生理の必然が、両極へ分裂していくイメージとして描くことができる。本当は批評家が、自己意識を媒介にして関係しなければ、対象である作品は、他者(異性)としてしか現前しないはずだ。だが、鋭敏になりすぎた自己意識が出逢うのは、いつも自分自身が他者という鏡に映った姿であり、当の相手はいつでも一次元だけずれた世界へ逃げ去っている。こういう関係は不毛としか言いようがないし、そのような関係はやがて批評家の自己意識にある転向をもたらすにちがいない。
  「Xへの手紙」の中で『女は、おれの成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解していこうとしたおれのこしゃくな夢を一挙にやぶってくれた。』と書いた時に、おそらくこの傑出した知性の転向の契機は顕在化した。この言葉は周知のようにもともと中原中也の恋人であった長谷川泰子と三角関係に陥って、すったもんだの末に別れた後に吐かれた〈近代知識人の名言〉である。〈名言〉が〈名言〉である所以は、生涯の一時期に誰もの心のうちをよぎる、ある感慨を言い当てているからであるが、〈近代知識人の〉という限定がいるのは、わが国の歴史上、また同じようにわたしたちの精神史上、青年期にある〈かれら〉=  (近代知識人)だけが、このような〈こしゃくな夢〉を持ち得るからであった。
                                                    (この項続く)

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