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散文 / 忘れえぬ人々

国木田独歩は自身の著書『忘れえぬ人々』の中で、自分との接点が全くない赤の他人ほど強く記憶に残るものだと述べている。
私は名前の付かないその現象にとても共感した。
赤の他人がいることによって完成される情景があるからだろうか。


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私の中にもやはり『忘れえぬ人々』がいる。

近鉄名古屋行き、その文字だけを目で追いながら伊勢駅内を走る。家族旅行の途中に私だけ急いで名古屋に向かっていたのは、どうしても休めなかったアルバイトに行くためだった。あえて窓側の指定席を予約したが、思ったより太陽が眩しくて少し後悔した。それでもカーテンを閉めるのはなぜかもったいなくて、変わり映えのない田舎の景色をぼーっと見ていた。


 
私が乗る電車に親子が手を振っていた。

電車に乗ってから20分、田んぼや住宅地だけが並んでいて人1人いなかったからなんとなく目についた。
その後は本当につまらない景色で、伊勢の特別感も虚しくすぐに意識を手放した。名古屋からの新幹線まで寝てしまったからか、あまりにも早くアルバイト先である自由が丘駅に着いた感じがした。いきなり「日常」に戻ってきて、伊勢旅行は私の夢だったのかと思うくらいだった。


自由が丘に着いた時、ふと手を振っていたあの親子を思い出した。

親子は伊勢が日常で、私は東京が日常だった。

当たり前のことだが、伊勢旅行は私にとって非日常であったことを強く思い出させた。

そういった意味では旅行というのは非日常であることを忘れるくらい浮ついたものだと実感した。

同時に伊勢が日常である親子を羨ましくも思った。
あんなに神秘的な伊勢神宮が近くにあって、松坂牛や伊勢海老が名物で、伊勢志摩の静かで美しい景色をいつでも堪能できるんだから。あまりにも観光客らしい感想を持ちながら、私はまた、慣れた歩きで動く人並みをすいすいと通り抜け、バイト先に到着した。

私はここが伊勢だったらどんな歩き方をしていただろうか、一瞬考えてすぐ辞めた。

この大荷物のみが、今私が非日常(伊勢旅行)にいた証となっていた。

私の記憶に残り続けるのは、伊勢神宮横のプリン屋さんで長話をした店員さんではなく、白い赤福の在庫をこっそり教えてくれたおじさんでもない。
きっと、あの親子だろう。


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