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「僕と彼氏のマリッジ・ボム」第二話


この世に生まれて初めて足を踏み入れた、地球旧日本エリア内のタケシタ・ストリート。そこでまた人生初のカジュアルショップデビューを果たした青年は、派手な赤い魚と、その日本語が大きくプリントされた一枚のTシャツに目を止めた。

『キン、キン、金魚!』

「ゴールド? カネザカナ、デス?」
「あっ、あのっ。そちらは第八世代アースAIが作成しました春夏の新作でして」
「…………What's mean?  ジャパニーズ・カクゲンか、デス?」
「はっ、はい? あ、翻訳アプリを失礼します!」

今年このショップに移動した店長は35歳、一般中流階級ベータの男性だ。今朝は平日ではあったが、表参道エリアにて立夏祭りイベントが開催される。去年の様子からしても、近くの低層マンション地域に住む庶民を中心とした混雑が予想されることから、普段より一時間早く出社したのだが。


『余……いや、私も地球に降下したのは七年振りだ。それ以前に何より……、このような方向性の店舗で買い物をした経験が皆無でな。入隊前の若者はこういう服装を好むのか?』

朝一で店に駆け込んで来たのは、クロノシア神話のアポロニアスもかくやな、見上げる長身の美しきアルファ男性。蒼みかかった銀髪は長く、首元で無造作にバレットでまとめられている。エリートDNA優生高配合種特有の瓜実型の面長に、美術館秘蔵の彫刻のような鼻筋、冷涼なラインを描く目元には二つのサファイアが埋め込まれていた。


曰く、この十年間、数えきれない程の夢にまで現れた初恋の人物と再会する。だが自分の所有は軍服か正装、オートクチュールスーツのみ。初回のデートにて相手に好印象を持たれたく、衣装を選んで欲しいとのこと。

確かに軍服と一流老舗ブランド品しか手元に無いのだろうとは、すぐ分かった。クレープを食べながら歩く学生達や近所の親子連れが「誰あの人!? アルファエリート!?」「正規軍のトップ組、初めて見ちゃった〜!」と店内を覗き込む視線を全身に浴びる彼は、詰襟の太陽系連邦軍の上級将官のみが身につける漆黒の第一正装姿で、優雅なロングローブが揺れる胸元には幾つかの勲章が瞬いている。

それもけして、他多くの貴族アルファのようにお飾り刀ではないと、圧倒的なオーラが物語っている。この将校は間違いなく、実戦で修羅場を潜り抜けてきた戦士だ。店長の曽祖父は、第四次タイタン攻防戦にて傭兵として最前線を生き延び曹長に昇進したが、引退後に曾孫達に囲まれ遊んでいる日常でも、子供心にわかる硝煙と血の匂いがしていた。

(命を、たくさん奪った哀しみと諦めの目だ)

「そ、それではですね……、大変恐縮ながら、わたくしめがコーディネートさせて頂いてもよろしいでしょうか、か、閣下?」
『そうだな、それが最適だろう。ではご亭主、本日の私の運命を、卿に全て託そう。それとまだ階級は中佐なのでな、閣下呼びは早いのだ。ではよろしく頼む』



「天碼(あまめ)・シェンライア・メーライシャン少佐。余と結婚して欲しい。お互いにとってこれが最上の運命なのだ」


太陽系社交界において、「蒼の君、ブルーハイネス」と、多くの男女からの憧れを独占するリーデンゲイツァー・フォン・ラグランジェ侯爵が、長い銀髪を肩に零しながら眼前に跪く。

「やっちまったぜ、あいつら!」
「マジかよ、アルファがクシィーを射止めたのか!?」
「何十年振りだ? マリッジ・ボムなんて!」

周囲から響くその嬌声は、あんぐりと口を開いて硬直する天瑪・シャリング・メーライシャン少佐の鼓膜を通過するのには、数十秒を要した。

マリッジ・ボムとは、初回のお見合いや顔合わせで予告無く、ほぼ面識が無かった相手側に突然結婚を申し込む行為だ。特にアルファ・ハイブリッダーが性欲をほぼ持たないクスィー・セクシャルに対して告げるプロポーズは、玉砕の可能性が非常に高い故に「ボム」という皮肉なミームワードと化してしまっている。

いわゆる、「精神共鳴の相手、運命のつがい」にのみ発動される告白である。

「ええ、ちょっと……、勘弁してくれよ……」

その爆弾を突然食らった側にしても、衆目の面前で告白を受けようが断ろうが、長い年月に渡って地球の上流社交界、及び太陽系の表社会では注目の的になり続ける。まさに「心中」に値する特攻なのである。

「ちょっと、侯爵……! そんなのやめろよ、顔を上げろって! 膝をついたりして、は、恥ずかしくないわけ!?」
「承諾してくれるか?」
「いや、あのさあ。それ以前でしょ? 僕ら今日って、直接会ったのも数年振りなのに……、ああああ……」


パニックを起こして冷や汗を流す天瑪から応えが無いと察すると、再び長身の彼は差し出した手の中で汗だくになっている細い指を、少しだけ強く握る。


「なんでだあ〜!」


天瑪のように、元々はオメガ性別から進化したクスィーアンは、体内の奥深くに精巣と子宮、卵巣を持っている。前世紀の地球で余りにも性的な虐待を受けたオメガ種が、集団自殺や自爆テロなどを繰り返してからその人口は激減し、2404年の現在には彼ら彼女らはほぼ絶滅したとされていた。

繁殖力の強いオメガと対になって、多くの子孫を残すはずだった優生種のアルファ男女は、本来なら生殖相手となるオメガの大量死以降、自分達の遺伝子を残せないまま生涯を終わらせる男女が激増。試験管やシャーレの中でDNA配合されたデザインズ・アルファはやがて生殖能力を劣化させ、この百年は深刻な少子化に陥っている。

性格的に対立競争心と自己顕示欲が強く、生殖能力が著しく弱体化しているアルファ同士の性行為での受胎率は5パーセントにも届かず。また凡庸ベータ種相手では、強化されたアルファ遺伝子が相手の精子卵子を破壊してしまう。対してクスィーアンの健康頑健な細胞とアルファのDNA相性は最適ではあるが、恋愛感情や性的欲求を持たないクスィーには、結婚やまして出産をするという人生設計はまず通じなかった。

「余は、けして卿の悪いようにはしない。これを受ければ、明日からは無益な相手と会う必要も無くなる」
「あのさぁ、そんなの言われても……」
「気にいらなければ、そちらから余を離縁すれば良い。この手を取るのだ、頼む……、天瑪・メーライシャン少佐」


銀髪碧眼の美丈夫の額から堀の深いまなじり、そして顎にかけて汗が流れ落ちるのを見た天瑪は、「はあ……」と重くため息を吐く。

この人の綺麗なつむじを、こんなシチュエーションで視界に入れる日がくるなんて。

唇を一度軽く噛んで、それまでの穏やかな空気から一変。冷ややかな視線で「ブルーハイネス、フォン・ラグランジェ侯爵」と彼を無表情に見下ろした天瑪は、硬質な声で「身分も釣り合わず不肖の身ですが、それではよろしくお願いします」と、淡々と応えた。



天碼・シェンライア・メーライシャン、27歳。


「マリッジ・ボム特攻」が成就すると、一気に周囲が湧き上がった。一連の様子を固唾を飲みつつ見ていた他の男女は、自分達のお見合いどころではない。ほぼ絶望的だと信じられてきた、アルファ・ハイブリッダーからクスィー・セクシャル相手のエンゲージが結ばれたのだから。

「二人は前からお知り合いでしたか?」
「ラグランジェ侯爵! クスィーを落とす秘訣は!?」
「天碼・メーライシャン少佐は、侯爵家にはいつ嫁がれますか?」
「侯爵は六男であられますが、養子入りする可能性は!?」


一気に押し寄せてきたライターらしきベータ男女や、ただ単に興味と自身へのアドバイス欲しさに数人が質問を投げかけて来る。セルフィカメラで勝手に二人を撮影する野次馬から花嫁候補を抱き上げ、188cmの花婿予定の男は驚異的な身体能力でベランダへと瞬時に躍り出た。

「ちょっ、と!! 侯爵!?」
「黙って。舌を噛む」

ふわ、と一瞬空中に投げ出される嫌な感覚を脊椎に覚えると、強靭な腕に抱き包まれたまま、天瑪の175cm63kgの身体は75階フロアから直下。支え方が上手いせいか、重力による負荷は最低限に抑えられつつ、58階に置かれているミドルテラスへと一度降り立つ。先ほどまで降っていた雨の名残か、春光で萌えるジャスミンの香りが中庭に満ちていた。

「僕は、あんたに恥かかせないようにしただけだから!」
「熟知している」
「絶対に、結婚なんかしないからな! アルファ相手なんて冗談じゃな……」
「口は閉じたままに」
「待ってまだ僕は、ぎゃあ!!」

蒼い双眼で軽く周囲を見渡したリーデンゲイツァー・フォン・ラグランジェ侯爵は「車を停めてある」と囁いて、天瑪を肩に担いだままに非常階段の側面へひらりと飛び、螺旋状になっている鉄骨を数段抜かしで地下駐車場へ滑り込む。

これが、優生遺伝子配合の第七世代アルファ・ハイブリッダーの圧倒的な起動力とアクションポテンシャルか。実戦で対面すれば、クスィーアンの自分ではまるで歯が立たないはず。

(そうだ、確かこの人は、三年連続で『対テロリスト英雄章』を取っていたんだっけ。アステロイドベルト空域での賊狩りで、右に出る騎士はいないって)

ようやく両足を地表に落ち着けた天瑪が再び悪態をつく前に、ギュルリと高いエンジンを響かせて眩い車体が現れる。シルバーウォーターカラーに包まれた、シトロエンの美しいボディ。地球に残存する老舗車体メーカーのうち、ポルシェとBMW、ベンツ、ホンダ、フェラーリと並ぶ骨董品だ。しかし搭載されているのは最新型の非炭素エンジンなのだろう、臭いもしないしほとんど音が響かない。

「少佐はナビシートへ」
「僕のドゥカティは!?」
「問題は無い、撤収済みだ」

運転席に長身を滑り込ませた侯爵は、天瑪のシートベルトを素早く確認する。目の前に降ってきた銀髪から、さらりとしたヴァーベナ・セドラが上品に匂った。

『マスター・ラグランジェ、モード入力はいかが致しますか』
「オートから手動へ。京浜33号の混み具合はどうか」
『検索済み、このまま直行すれば20分でご自宅に到着します』
「了解した、バスルームと食事の準備を」
『イエス、サー』

コンシェルジュAIと会話したラグランジェ侯爵は、前髪と呼吸を少し乱しているだけで、ほとんど汗を流していなかった。彼と対照的にお気に入りのコム・デ・ギャルソンをじっとり濡らし、天瑪は息を収めるのもままならない。侯爵のブラックジーンズのポケットから、白いシルクのハンカチを差し出される。

「少佐、水がそちらのサイドボックスに」
「……ここで明確にしておくべきだと思うから言うけど、僕は恋愛とかセックスとか、そういう下劣な物に一才興味は無いから。クスィーアンだからじゃないよ。そもそも子孫を残す為だけに、神から人類に非合意インプットされた性欲とか大嫌いだし、むしろ軽蔑している!」


語気も荒くしたまま一気に捲し立てると、銀色の美丈夫は視線をナビシートへ流して口を閉じた。天瑪も遺伝子的には、クスィー・セクシャルの一等純血保持者の端くれだ。感情制御が得意で、普段はどんな理不尽を受けても腹立たしくても、決して声を荒げない。新人類である彼らは、本能的に争い事を拒絶する。だがさすがに予定外のトラブル勃発と、明日からの騒がれる生活を考えると興奮と怒りが溢れざるえなかった。

「卿の言い分は道理だ。だが水分補給はして欲しい」
「わかったよ! イエス、サー!!!」


思わず怒鳴ってしまうと、車中に差し込んでいた日差しが突然暗闇に飲み込まれ、続くはずだった拒絶の言葉を遮断する。長い高速トンネルに入ったらしい。オレンジ色が流れるライトに染まった端正な横顔は、何を考えているのか天瑪には全く伺い知れなかった。

ほとんど対向車の無い暗闇から抜け出すと、見事な湾岸線がブルーを反射して眼前に広がっている。赤い大橋の向こうには江ノ島、そして頭上にはスラリと空を貫く、シルバーとクリスタルのロイヤル・フローティングアクアビリティ。


「……あれ、ねぇ、あんたの家って、もしかしてハヤマ・グランドセンチネル?」
「そうだ。問題でも?」
「さすがにお高い場所に住んでるなって。自分で買ったの?」
「ああ、新築計画が持ち上がった時に、すぐに押さえた」
「まさか、最上階のペントハウスとか?」
「そうだ」
「ふぅん……」

弾け終わったポップコーンのように大人しくなった天碼を見て、ラグランジェ侯爵も安堵した様子だ。指示通りに肘下の保冷ボックスから350mlのペットボトルを取り出して、片手でキャップを外す。微炭酸の軟水はレモンフレーバー。

「……あんたって柑橘系が好きなんだな、意外」
「卿の好みでは?」
「え、なに?」
「少佐の好物だろうと思った。違ったか?」

なんだよ、僕の身辺調査は万全なのか。ちょっと抜けてる箇所もあるけど。

七年前に建設された80階建ての最新鋭フロート型マンションは、さすがに地下の深い立体駐車場も完璧なロボット管理になっており、ちょっとした軍事基地を連想させる。上物はかつての京都や上海をイメージしたロマンチックなオリエンタル建築なのに、戦車でも備蓄していそうなそのギャップが大きかった。


ずらりと居並ぶコルベットや4WDの博物館を彷彿とさせる影端に、天瑪の鋼鉄の愛馬ドゥカティ・スーパースポーツS600-2402年型が、主人を待ってひっそりと控えている。ボディの泥はねがきっちりクリーニングされて、小さな傷が気になっていたカウルにも、丁寧なカーボン・コーティングが施されていた。

「サービス過剰だけど、まあ一応サンキュ。どうやって運んだの?」
「ホテルのエアポートから、余のプライベートジェットで」
「ああそう……、お早い手際で」

いつの間にか侯爵は、ラウンジに預けたはずのカシミアコートと、天碼のキャスキッドソン・リュックを両手に下げている。車中に誰かが運んでいたのだろう。

「左の一番奥のエレベーターへ。最上階まで直結だ」
「うっわ、本当に月面駐屯地レベルなんだ」
「ここならば空爆テロに破壊される心配もないし、パパラッチ対策としては完璧だ。卿の盗撮写真がアルファ間で売り渡されているのは、軍の防犯システムが甘過ぎるせいだと思うが」
「はいはい、うちの部署は万年金欠だからね」


住人の網膜と透視スキャン、28桁のコード入力に五本指のランダムチェックをクリアしたエレベーターAIは、二人を乗せて静かな上昇を始める。おそらくは特注の防弾ガラスで包み込まれているだろう透明な箱の向こうに広がっているのは、太平洋のブルー。

長く、10メートルは続くだろうクロス張りのエレベータースポットからも、そろそろ夕焼けに変わりゆく海岸線がよく見渡せる。メインルームに入る直前で、長身の銀髪碧眼が二回り小さい、長い黒髪の「婚約者(仮)」へ振り返った。クスィーアン特有の小さな頭蓋骨に、広く聡明さが溢れる額。そして印象的な大きな瞳。

天王星ツタンカーメン王家の、おそらくは太陽系で一番有名なクスィーアンであるソーヴィ・憂は色素突然変異の真紅の髪だが、天瑪のそれはしなやかな絹を思わせる漆黒。そして光の加減で翠にも紫にも輝く双眼は、長いまつ毛に覆われている。

「……少佐、改めて申し訳なかった。冷静な対応に感謝する」
「暴れたくてもね、『対テロリスト英雄章』三つ持ちのアルファ相手に、僕が勝てるとでも?」
「それでも、こうして話せて余は嬉しい。礼を言う」

さすがに、長い歴史でアルファエリートが別邸やヨットクルージングを堪能する葉山エリア。七年前に新築されたばかりの月面直結高軌道エレベーターを誇る「ハヤマ・グランドセンチネル」は、完全防衛AIに守護された屈強な海上の城だ。

「荷物はソファの上へ、少佐は寛いでくれ」
「あのさ、悪いんだけど汗みどろで冷えちゃったし寒くて。着替えたいんだけど、捨ててもいいシャツとかある?」


庶民の憧れであるバトラーボットAND-255が渡してきたオーダーパネルから「ホットのハニーウーロンラテ、カスタムローファット、ミルク増し、グランデ」とタッピングした天碼(あまめ)・シェンライア・メーライシャン少佐に、リーデンゲイツァー・フォン・ラグランジェ侯爵は、一瞬困惑の表情を見せた。

「……気が付かず、すまない。シャワーブースが寝室の奥にあるから使うと良い。いや、卿は和系なのだからバスタブを使うのか」
「え、いやそこまでは……。まあ、でもね、正直バラすとこの要塞の風呂場にかなり興味はあるんだけど」
「では、汗を流した後に夕食にしよう。一番広いバスルームは、テラスに出て海岸方面の個室になる。アメニティも全て揃えてあるから、ゆっくり疲れを取りなさい。余は仕事があるので、気遣いは一切不要だ」



「おかしな展開になった……」

ラグランジェ侯爵の指示通り潮風を全身に受け止めながら、サウナスペースと隣接されているバスルームに足を踏み入れると、まるで青い海の上に浮かぶ方舟で旅にでも出たかのように錯覚を覚える。軍の薄汚れた自分の寮一部屋がそのまま、すっぽり入ってしまう広さ。ジャグジーバスからは凛とした香りのバスボムが、惜しげもなく溢れ流れ続けている。

慌ててコックを探したが、「あ、そうか」と室内管理AIに「お湯を止めて」と命令した。備え付けになっているチタンのラックには、セラミック瓶に詰められた高級なブルーのシャンプーやコンディショナー、ヘアバターなどが並び、果たしてどれを使うべきなのか迷う。

「ま、どれつけたって値段的には変わんないし。いっか!」

お見合い会場のホテルから、抱え上げられたまま飛んだり跳ねたり走ったり。自分の体力はほぼ使わなかったのに、どうしてこんなに汗だくだったのか。マッサージシャワーから勢いよく吹き出たお湯に、たっぷりと髪を濡らす。

「めっちゃんこ、腹減った〜」

とんでもないハプニングを体感して、ランチに食べたはずの前菜サラダやラムの煮込み、桃のコンポートはとっくに体内燃焼して消えてしまった。とにかく汚れを洗い流して、精神的に落ち着きたい。ボディソープを馬毛ブラシに泡立てると、もう何も考えたくないとばかりに、天碼は無心に一日の垢をぬぐい始めた。

き〜みは、誰とキスをする〜?
私、それとも〜、あの娘〜?

「…………歌っている……」

ディナーのメインコースの好みを聞こうとして浴室へのマイク回線を開くと、反響していささか調子外れだが、けして乱れてはいないアルトボイスが流れてきた。

弱虫泣き虫連れて〜、まだ行くんだと思う〜わたし〜
愛するより求めるより〜
疑うほうが、ずっとたやすい〜自分が悔しい〜


リーデンゲイツァー・フォン・ラグランジェ侯爵は、その彫刻のように整った口元に指を添え数秒間思考し、自分の代わりにバトラーボットAND-255へ伝達を頼んだ。

ランチタイムから結構な運動量をこなしたが、普段からアステロイドベルト周辺で空賊相手に暴れている実戦任務と比較すれば、食後の軽い散歩程度だ。特に受胎児の頃から、筋力や運能能力の優生配合を何代にも渡って受けたアルファ・エリートにとっては、三日間徹夜しての戦闘状況でも冷静な戦略能力に影響は無い。

『侯爵、あと少しで出るから。お待たせ』

インターフォンから歌声と同じイントネーションが飛び込んでくる。わずかに木星ジュピトリアン空域訛りのあるキングズイングリッシュだが、自分の英語発音も時々ゲルマン・ネイティブが出てしまうので、気にはならなかった。

「了解した。メインダイニングで待っている」
『バスローブで一番サイズ小さいの、グリーンのやつかな』
「……二人だけなのだから、気にせずに。気楽に過ごせば良い」
『そうだよね、じゃあ後で』

侯爵としての地球東ヨーロッパの領地統制と、太陽系連邦の上級軍務、そして次から新しく着手する「クスィーアンの伴侶となる、アルファ・ハイブリッダー」としての仕事と計画案を一度ファイリング。厳重な個人コードを掛けてセルフィアイと連携させ作業を終える。

そこで初めて、今日は午後にニットスタイルとブラックジーンズを身に付けてから一度も着替えていないと気付く。ベルリンの本家を出てからは木星に長く住み、天王星のツタンカーメン家に五年間私設仕官していた頃。ランチ後とアフタヌーンティータイムの時間に上着だけでも替えるのが、貴族としての嗜みだった。

子供時代から「なんとも効率の悪い習慣だ」と憂鬱だったが、ここ数日は天碼・シェンライア・メーライシャンと初めての顔合わせをする為に、綿密なシミュレーションを重ね、このニットとジーンズも自ら生まれて初めて入店したカジュアルショップで、試着してからカード払いをした。

何せ侯爵家の六男坊だけに、幼少期は兄のお古ばかり着せられていたものだ。着回しで多少くたびれた物が多かったが、腕利きテイラーが何度も補修していた高級品だし、服装に全く興味はなかったので不満は持たなかった。だが今日のような特別イベントがあると、やはりシチュエーションに相応しい服装が不可欠になる。

「ちょっと! 侯爵!!」
「どうした?」

ノックをスキップして突如リビングに飛び込んだ人物に、さすがのリーデンゲイツァー特殊先行部隊中佐も肩を振るわせる。いや、正しくはドアを開けたその人のスタイルに驚愕したのだ。今日の昼過ぎに、ようやく十七年の苦節を経て結婚を申し込んだナチュラル・クスィーアンである天瑪・シェンライア・メーライシャン少佐が、まだ雫の滴る艶やかな黒髪をラフに結い上げ、夜の気配を深くした大きな窓辺に立っていた。

スラリと細い脚は眩しく素肌のままで、そして上半身から太腿までたっぷりと覆うコットンのTシャツ。その胸元には色鮮やかな赤い、大きな観賞魚。

「ちょっ、ブフッ……! こっ、これ自分で買ったの!? 何これ!? 『咳をしても、金魚。』って!」

しっとり水分含んだ瑞々しい若い身体からは、普段自分が愛用するボディソープやローションのアイジング・ブルーが匂い立っている。アルファ・エリートである男性よりもはるかに細く小柄で、しかし同族種のアルファ女性よりは背筋も骨格ラインも節が目立つ。少年のように凛として少女のようにまろやかで。童顔の男性ともスレンダーな女性にも思える。これが、新世代人類であるクスィーセクシャルの肉体なのか。

リーデンゲイツァー・フォン・ラグランジェ中佐は、18歳でソルボンヌ大学戦術心理学部を主席で卒業し、二年後にベルリンの帝都士官学校をも主席卒業してから一度として、敗戦の苦渋を飲んだ体験は無い。体術でも戦術理論構想でも、他のアルファ・ハイブリッダーに遅れを取らず、27歳の若さで外惑星遠征大部隊のリーダーを務めている。「対テロリスト英雄章」を三回、「銀星章」と「先勝アスタリスク」も二回受賞していた。


しかし、その半生の中で全く手に負えない例外もある。目の前で生足を晒している初恋相手への想いを拗らせ過ぎて、ただの一回も、他人と肌を重ねていない事だ。ファーストキスの感触さえ、形の整った唇は知らない。


「シュール! これなに、ブッファ!!! キンギョが、金魚の顔が!!! アツハハハハ!!! う、ゲホッゴホッ、ウエッ、リ、リアル過ぎてどん引きなんだけど〜!!!」

引くと言いつつ、爆笑して腹部を抱え両足をドタバタと踏み込む天瑪。ショックで涙が止まらないらしく無造作に頬を擦ると、まだぐっしょり濡れている長い黒髪から、ポタポタと雫がフローリングに跳ね落ちる。

「ハァ、はあ……、腹筋が死にそう〜! はあ、めっちゃんこウケる……」
「少佐、水を」
「はあ〜、ありがと。ヤバいよ、僕ちょっと貧血起こした……」

水溜りを気にせずしゃがみ込んだ姿に、侯爵は顔には出さずに慌てて腕を伸ばした。ハヤマ・グランドセンチネルは戸建てマンションではあるが、50階にあるフレンチ&イタリアン「ラ・バルジャネール」の一流シェフ達が、各部屋へオプションでメニューを作ってくれるサービスがある。天瑪の好みそうな料理が、既にダイニングの広いテーブルを支配していたが、フラフラと危うい足運びを見てリビングのソファへ座らせ、ミネラルウォーターのペットボトルを握らせる。

「早く拭かないと、湯冷めをする」
「これのせいで、フェイスシート貼るの忘れちゃったよ! どうしたのこれ、自分で買ってきたの?」
「ああ……、今朝はタケシタ・ストリートで……」
「あんたが!? は、ハラジュクエリアに!? まさか、タケシタ・ストリート!?」
「そうだ」
「聞くの怖いけど、ぐ、軍服着用で?」
「他に無かった」
「……うっわぁ……」

今度こそ、「どん引き」したらしい引き攣った顔の天碼は、「サポーター、今日のSNSを検索。ワードは、軍服、軍人、美形、アルファ、エリート。写真を出して」とルームAIに指示を出す。
『了解しました、検索ヒットは48件』

リビングに設置されているエアビジョンに、パラパラと液晶写真が並べられる。時刻は今日の午前九時、場所はハラジュクエリアのタケシタ・ストリート。
どの写真にも、天瑪の長い黒髪を淡いピンクのバスタオルで丁寧に軽く叩いている、この美丈夫が映っていた。

「はあ〜、うちの寮に負けない防災システムのユルさ!」
「周囲に敵意は無かった。後で広報に処置を頼む」
「みんな驚いただろうなあ、ここ今日は立夏祭りがあったんだよ。まだクローン金魚掬いってやってんのかな」
「祭り?」
「子供神輿とか出てさ、北参道から明治通り沿いに……、神宮前までだったかなあ。昔は僕も背負ったよ。懐かしい」

ポフポフと、黒髪の水分が優しくタオルに吸われていく。なんとか冷静を保ってはいたが、ラグランジェ侯爵の目は真っ白な「婚約者(仮)」のスラリと伸びる脚に釘付けだった。アルファ・ハイブリッダーの性欲もクスィーアン並に淡白なタイプが多い。彼自身も、自分が誰かの素肌に高揚するなど想像した事が無かった。

激戦の戦場では寝所にプロのコールガールが呼ばれ、高額なチップを握らせれば、客の名前を絶対に漏らさずに「仕事」を終えて去って行く。ラグランジェ侯爵は地位も名誉も軍歴も申し分無い英雄だったし、何よりもその美麗な顔と精悍なビジュアルが不要な蛾を夜に呼び寄せる。

頼んでもいないのに、上級将官の個室ベッドやテントにアルファ女性や、ハーフキャットビースターの美少年が全裸で微笑んでい晩が何度もある。その度に適当な紙幣を握らせて返品するのだが、貴族育ち故に現金を持つ習慣が無かった。

コードやカード支払いにすれば無実でも義楽の痕跡が残ってしまうので、この十数年は万冊を無造作にポーチに入れておくようにしている。

とにかく、リーデンゲイツァー・フォン・ラグランジェ侯爵にとって、ただ一人以外との肉体関係や体液交換は人生において全く無意味な行為に過ぎなかった。ラグランジェ財閥太公家には五人もの兄がいて、全員それぞれ離婚歴が三回を超え必死に人工授精を繰り返している。

アルファ種の呪いなのか、兄の誰かが子持ちになったという知らせは全く聞かない。孫が生まれない現実に母親は苦い顔をしていたが、両親に相談もなく軍籍に入った末息子には何を言っても無駄と理解しているらしい。

しかしながら現実問題、一人も女子がおらずクスィーとも無縁の家のままでは、そう遠くない未来に家系が途絶えてしまうのは明らかだ。

そんな思考に浸っていると、いつの間にか胸元の旋毛の持ち主が静かになっている。手元に残るペットボトルは空っぽ。先ほど、「フェイスシートを貼らなかった」と話していたが、ここには保湿ローションとケアオイルのみ。

「少佐その、フェイス、シートやらが無いのだ。すまないが地下のコンビニエンスストアにて購入するので、食事をしながら待っていてもらえるだろうか」
「え? ああ……。今日はいいよ、バスルームにあったアクアパックを使えたし。あれさ、もしかして僕の為に用意しておいたの?」
「普段、どういう種類を使用しているかわからなくて」
「なんか、色々ありがとね。愛車の整備もクリーニングもさ、明日ちゃんとお金返すから」
「その必要はない。余が勝手に進めてしまった詫びだ。まだ全く足りていない」


あれだけ大笑いしていた姿と変わって、天碼・シェンライア・メーライシャン少佐は、黙ってソファに寄りかかり窓に広がる夜景を眺めていた。もう19時を過ぎている。深いバイオレットの空の下で、エノシマの灯台がきらきらと点滅し美しい。

「……こんなに笑ったの、何年振りかな。笑うのって疲れるけど、気分スッキリするもんだね」
「……そうか、余にはわからんが。少しでも気が優れたのなら僥倖だ」

バトラーボットAND-255が手渡してくれた、グリーンアップルのヘアオイルを黒髪に馴染ませてから、熱くなり過ぎないようにイオンドライヤーを施す。ぼうっと黙り続けている天碼に、「もしや、婚約が嫌になったのか」と侯爵は内心冷や汗を流していたが、そのうちコクコクと俯き始めてきた小さな頭に、アルファ人種の自分と、強化受胎していないナチュリア・クスィーアンの体力差を突きつけられる。

「メーライシャン少佐」
「……、はい、なに……」
「今朝方まで徹夜続きだったと忘れていた。本当に申し訳ない」
「ホントだよ……、やっと仕事が終わって……、疲れ切ってたから……。ランチを食べたら寮に帰って、映画配信見て寝ようと思ってたのに……」

ゆっくりと上を振り向いた大きなパープルの瞳に、侯爵は自身でも知らずに息を呑んだ。生まれて27年間、上流社交界やアルファエリートの会合で何百、何千というハイブリッド・ヒューマンの男女を見知ってきた。どの人物も最高の遺伝子配合で構成されたサラブレッド・ヒューマン揃い。

しかしこんなにも心を動かされ、何もかもが綺麗だと心酔する対象は目の前の一人しかいなかった。アルファである自分達にはない、額のそばかす、上顎の一本のみ目立つ八重歯。不揃いな爪の形、首周りにはほくろが点在している。

「……冷めてしまう前に、ディナーを如何か。卿の口に合えば良いが」
「食べる食べる。眠くて忘れてたけど、腹減って気絶しそう」
「……少佐、その前に何か、脚に、その、着た方がいい」
「あ、ヤバい。冷えて腹壊すわ。あんたのパジャマ貸してくれる?」

黙って頷いた侯爵は、クローゼットに行ったまま30分、「まだ〜!?」と催促するまで戻っては来なかった。


「ご馳走様、美味しかったよ。こんなに肉食べたの何ヶ月振りだろ」
「タンジェリン・シャーベットがこの後に届く」
「サンキュ、僕は酒が駄目だから。お相手できなくてごめんね」
「クスィーはアルコールに耐性がほぼ無いと聞く。大丈夫だ」


二人とも食べ物の好き嫌いはなく、気持ちよく片付けられた皿が運ばれていくと、タケシタ・ストリートでの初ショッピングや、六人兄弟のお下がり問題で盛り上がった。天碼の一族の始祖は元々鎌倉の武士の流れで、材木座町に住んでいた事、先祖は花火師だった歴史など侯爵には新鮮で嬉しい情報ばかりだ。メーライシャンの姓は元は「名楽院」という寺院が発祥で、旧日本領地がほとんど外国アルファに買い取られていった時代に合わせ、改名したらしい。


「僕に話したいこと、たくさんあるんじゃないの?」
「ある、それは大量にあるが……、あり過ぎてどこから始めるべきか……」

ふう、とため息をついた天瑪は、搾りたてのマスカットジュースを含む。

「僕さ、大きな仕事がひと段落したから、今週は有給休暇の消化で木星にでも旅行しようかと考えてた」
「うむ、休養は大事だ。卿は働き過ぎだと余は思う」
「前線勤務の左官と違って、技術者の僕は給料が少ないからね。それに何より、仕事が大好きだし生き甲斐なんだ」
「……知っている」
「きっと、僕らが婚約とか結婚について話し合いを始めたら、そうそうすぐには終わらないよ。だからその、一週間ここにゲストとして滞在してもいいかな」

ソファのすぐ近くに立っていたラグランジェ侯爵は、咄嗟に発言者の前に回って、その膝下に片足を折る。

「もちろんだ、一ヶ月でも一年でも
「言っておくけど、ゲストとしてね」
「当然だろう」

漆黒の絹髪をかき上げて苦笑した天瑪は疲れては見えるが、けして投げやりな態度には感じられない。言葉を手探りに集めている様子だ。その胸元でビビットな金魚が揺蕩っている。

「こんなに良くしてもらったし、僕もそんなに無神経じゃないから中佐の気持ちは、その、嫌じゃないんだけど。典型的なクスィーアンとして、子供の時から徹底した独身主義なんだよね」
「…………」
「ちょっとぉ〜、そんな悲壮感溢れる顔やめてくれる〜?」
「余は、余はずっと、そなたしかいなかった。七歳のあの武闘試合から」
「そんなに? あれっ? 十歳の僕があんたを殴った日じゃなくて?」
「ちがう、もっと前だ。2398年の10月21日、木曜日」
「あ〜、そっかあ。なんだか悪かったね、そんなに待たせたのに」


天碼は「残りはまた、明日からの課題にしよう」と立ち上がって、ラグランジェ侯爵も同意する。きっとこの問題は、数週間で解決の糸口は見つけられないだろう。二人ともその現実をよく熟知しきっていた。十代のピュアな自分達はともかく、今は大きな責任を背負う社会人で軍属だ。会っていなかった年月の方が明らかに長いし、望んで進んできた道も全く違う。

婚姻について妥協か、それともどちらかが屈するか。まだ光の方向はお互いに見えない。


「客室で卿はゆっくり寝ていると良い。余は午前中にトーキョー基地に休暇申請をしなければならない。上司には今回の件についても、挨拶をする必要がある」
「了解、明日は遠出しないから。用事があったら連絡して」
「……外で食事をしないか。次は二人で店を選んで」
「良いかもね、タケシタ・ストリートにでも行こうか?」

目線を伏せた侯爵に、天碼は「じゃ、このTシャツは今日のお詫び品として貰っておくね」と胸を張って金魚の柄を広げた。

「見た瞬間に、卿に渡したいと思った」
「次は僕が、もっとシュールなのを買ってあげるよ」
「楽しみだ」
「…





い、一万四千文字〜!!??? 書き終えるのに四日間かかったけど、良いゴールデンウィークでした! お墓参りしつつ鎌倉に取材行くかな。小田原の紫陽花菖蒲祭りに、青いレッドアローに乗って行きたい。

文中で天碼が歌っていたのは、「マクロスF」の伝説的主題歌、「トライアングラー」(菅野よう子作曲、坂本真綾歌唱)

眼と頭がガンガン痛むので、修正はまた明日以降ちまちまやります。疲れたラーメン食べたい〜!!!

ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます!!


リーデンゲイツァー・フォン・ラグランジェ侯爵、27歳。


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前のお話↓



元絵の天瑪、クリスタ修行中の年賀状でした。イメージ声は福知桃子ちゃん。



本江のラグランジェ侯爵。杉山紀彰君の声のキャラを作りたかった。


天瑪のドゥカティ、このタイプ。

↑天碼の大尊敬する憧れの上司、憂・ソーヴィ・ツタンカーメンのお話と、天瑪とラグランジェ侯爵と意外な共通点になる、アルジュナ・ミズラヒ子爵のスピンオフ。



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