映画『心と体と』
2017年/製作国:ハンガリー/上映時間:116分
原題 Teströl és lélekröl 英題 On Body and Soul
監督 イルディコー・エニェディ
予告編(日本版)
予告編(海外版)
STORY
ハンガリー、ブダペスト。
牛の食肉処理場で財務部長として働くエンドレは左腕に障害を持つ(左腕全体がマヒしている)中年の男性。離婚歴があり、娘や妻とも疎遠となっており、過去に何かがあって深く傷ついたらしく、以後かなりの年月、女性とは肉体的な関係しか持つことの出来ない惰性の日々を過ごしている。
そんなある日、代理の品質検査官としてマーリヤが食肉処理場に赴任してくる。マーリヤは先天性と思われるなにかしらの障害を抱えているらしく、情報処理能力が高いにも関わらず、他人とのコミュニケーションを上手くとることが出来ないために、たぶんこれまでずっと悲しい思いをしてきており、心が深く傷ついている。それゆえに食肉処理場でも周囲から心を閉ざし、直ぐに浮いた存在となってしまう。
マーリヤの赴任から少し経った頃、「牛」用の交尾促進薬が盗まれる事件が発生する。警察が介入し、犯人の捜査のため全従業員が精神分析医のカウンセリングを受けることとなる。
するとそのカウンセリングの過程で、マーリヤとエンドレが同じ夢を共有し、「鹿」のオスとメスとして夢の中の森で、既に出会っていたことが判明する。
思わぬ事態に戸惑うふたりであったが、それ以後、その夢の話を起点としてお互いを強く意識するようになり、急速に惹かれ合い、その距離も急接近してゆく。
しかしふたりの関係の前に、お互いの障害と心の傷が「透明なガラスの壁」のように、立ち塞がるのであった……
レビュー
※本レビューは生真面目な感じになってしまっていますけれども、本作はユーモアにあふれた優しい作品です
恋愛映画であるにもかかわらず、食肉処理場が主な舞台となっているのが面白く、そのことだけでも、イルディコー・エニェディ監督の才能に敬服してしまいます。
しかもただ面白いというだけではなく、しっかりと意図を感じる画作りがなされており、残念ながら私にはその意図を正確に把握する理解力は無いものの、現代社会における「仕事」において最も「命」を、そして「生と死と」を日々感じる場所のひとつとして食肉処理場が選ばれたであろうことは、かろうじて理解することが出来ました。
現代社会に生きる私たちの多くは、自分たちの食べる食肉を、自分たちで殺して捌いて入手することは無く、お店でスライスされた肉片を購入し調理して、あとは食べるだけです。
そのような過程を経ることにより失われてしまったものは何かといえば、他の動物の命に対する感謝であったり、命そのものへの尊厳なのではないかと思います。
例えば私の通っていた小学校の教師たちは皆一様に、「いただきます」を「号令」と言っていましたけれども、「いただきます」は「号令」ではなく「命をいただきます」という祈りであり、動植物の命に対する感謝を述べるひと時であるはずです。しかしこのような例からも分かるように、多くの人々はそのことを、いまや完全に忘れてしまっています。
ゆえに自分以外の命に対し理解を示そうともせずに、惨い仕打ちを平気で行える人々が(いじめ等)、後を絶たないのではないでしょうか。
もしかするとエニェディ監督は、食肉処理場の加工現場を丁寧に撮影することにより、多くの人々が、あたかも存在しない事であるかのように日々見ないように目を背けている「自分以外の命の心や肉体の傷」を、本作を通して観客に感じて(想像して)欲しいと考えているのかもしれません。
本作の食肉処理場では、登場する多くの人間たちの多くは心を開くことが出来ずに苦しみ、その心は死に瀕しており、牛たちはといえば肉体を開かれて殺され、その心は消えてゆきます。しかしながらそのような「日々生と死の交錯する場所」であるからこそ、よりそれらの存在は輝きを増します。
本作の最も注目すべき点は、主人公のエンドレとマーリヤが「人間」であることと並行して「鹿」でもあり、その両方でコミュニケーションを育み、それが映画にしか出来ない表現方法にて描かれている点にあるように思います。
しかもファーストシーンが「鹿」のパートとなっているため、「鹿の観ている人間の夢」という幻想的な解釈も出来るようになっています。そしてそれもまた多くの人々が忘れてしまっている「アニミズム」的な、「命」とその「尊厳」への奥深い想いへと繋がるイメージを喚起します。
さらにエンドレとマーリヤは現実世界で人間の姿としてあるときよりも、別世界の自然の中(夢の中)にて「鹿」であるときの方が、自由(心が開かれた本来の自分である状態)として存在しているのですけれども、そうであるならばエンドレとマーリヤが「生」をより実感して生きているのは、「鹿」の姿をしている時であるということになります。となると、食肉処理場で働いている彼らの「人間」としての現実生活(時間)は自由ではない(「現代社会という状況」ないし「自分の肉体」に)拘束された、ある意味「死」の状態にあるというように見ることも可能となります。
その「生」と「死」(「心」と「体」)の世界を行き来しながら、エンドレとマーリヤは「恋」と「愛」とを求め、彷徨います。
その姿は余りにも脆く、儚げで、それゆえに美しく、そして愛らしく……
※エニェディ監督が「鹿」という動物を選択したのもまた、巧いなぁと思います
最後に
本作はとても神経の行き届いた作品であり、色々な仕掛けが、美しく繊細なレース細工のように編まれていますけれども、例えば色彩は、様々な場面において響き合います。細かいところでは「鹿の毛皮の色」とマーリヤの家の食卓にある「塩と胡椒の入れ物の色」がリンクしていたり、マーリアがTVを見ながら食べる「グミの色」と、エンドレの家の「TVとソフト再生用デッキの光の色(赤と緑)」であったり……。全体としては赤、白、青、薄い黄色、の使い方に力強い意図を感じ、しかし個人的に最も印象に残り且つ好きであったのは、緑を潤沢に使用した豊かな表現でした。
ちょっとした会話のやり取りの妙から、文句無しな脇役陣のチョイス、光と影の使い方、撮影の息をのむ美しさ、音や音楽の澄んだ響き。
ラストも最高&パーフェクト。
とても幸せな気持ちになる1本です。
メモ ※ネタバレ注意!
①マーリアがレゴブロックの人形みたいな玩具にて会話の練習をするシーンで、エンドレを模した人形にはちゃんと片手が無く(現実とは逆の腕が無いということは、エンドレの心がガードしているということを表しているのかもしれません)、もう一方の手には「盾」を持ち、マーリアを模した人形のことをガードしているのが「心理状態」を反映していてツボでした。
②マーリアがミートハンマーにて浴室のスライドドアのガラス(たぶんマーリアの他人に対する心の壁のメタファー)を叩き割り、その割れたガラスの破片を使用して手首を切って自殺しようするシーンはとても良かった。
なんと言ってもマーリヤが血管をちゃんと縦切りしているところが素晴らしく、彼女の本気の愛と悲しみ、そして苦しみを感じ、ジ~ンときた。
また、マーリアの選んだその方法は、食肉処理場の牛の処理の仕方を模しており…(以下略)
③セックスシーンを撮るのが上手いエニェディ監督。
行為後、エンドレのベッド外に垂れ下がった不自由な方の手を、掴んで引き上げるシーンはグッと来ました。そのシーンは、ラストでエンドレの撒き散らしたパン屑を拾うシーンとも響き合っている気がします。
④ラストの完全に打ち解けた雰囲気の食事シーンは最強で、何度観ても幸せをもらえます。
というかあのシーンでトマトの飛沫がピュッと飛ぶところ、あれって偶然撮れたシーンと笑い声を、上手く編集して使用したのではないでしょうか。
あの自然な笑い声は、とても演技とは思えませんでした。
⑤主人公のコミュニケーション能力、そこまでおかしいようには見えなくて、逆に周りがおかしく見えてしまい、「なんであのくらいで?」と思ってしまうのですけれども……(笑)
⑥マーリア単体と処理されてゆく牛を撮るときのカメラワーク、マーリアとエンドレ(人間&鹿)を撮るときのカメラワークに、理知的な表現の凄みを観ました。
⑦「心と体と」を補完し合うふたりの物語