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電車に揺られながら書いた独白⑪・起業への憧れと挫折

会社の通勤電車に揺られながら、
ただスマホでひたすら書き連ねた独白です。

今回は「起業への憧れと挫折」。

起業家に抱いていた「起業家にさえなれば思い通りの人生になる」という幻想

俺が従事しているITエンジニア、
業種を深くいえばインフラ系エンジニアそのものが、

もともと希望してた職種でもなかったので
正直定年までできるもんじゃないと思っていた。

「俺が生まれてきた理由って、ITエンジニアなるためだったんだ!」
という強い気概も持ち合わせているわけでもないしね。

技術者としての限界は、ブログをやってみて痛感した。

技術系の内容を毎日書き留めようと思ったけど、
技術系の記事を書くのが全然が進まなかった
のだ。

普段仕事してる内容なのに関わらず、
この有様はどうしたことか………

今の仕事っていうのはお金を稼げるかもしれないけれども、
ずっとやってける仕事じゃない、ということを悟った。

だからと言って、ずっとやってけない仕事ってわかったから
転職をして食っていけるほど、甘い世界でもない。

ITエンジニアを辞めて、別の職種になれるかと言ったら、
やりたいことだけで飯を食えるかと言ったら、
全くその根拠も保証もない。

ITエンジニアじゃない、
本当に自分がやるべき仕事を探していたら、
「起業家」という生き物に出会い、「起業家」という生き方を知った。

会社と家のラットレース生活を辞めたかったこと


新人の頃に思い描いていたゲーム開発の仕事ができず、
プログラミングとは関係ないITインフラの部署に飛ばされ、
以降はずっとITインフラの仕事をするようになる。

初めは子供の頃から思い描いてた仕事ができないことに違和感を感じていた。
しかし、大人の世界ってそういう世界なんだと。

子供の頃、お酒の美味しさなんてこれっぽっちも理解できなかったが、
大人になって、そんな理由は関係なしに、それは飲み込むもんだと。

曲解かもしれないが、ワサビ抜きの寿司を喜んでた子供の頃と違って、
大人はワサビが入った寿司を必ず喜ぶものなんだと。

たとえどんなにワサビが嫌だったとしても、
喜んで食べるのが大人っていうものなんだと。

やがて仕事に慣れていったことで、
ITインフラの技術で食べていけるようになった。

しかし、何かがおかしい。

毎日満員電車に揺られ、毎日時間の枠にはめられる生活を、
100%納得していない自分がいた。

これが「普通」であることに対し、何か「異常」に感じた。
このままだと定年にならない限り、
このモヤモヤから解放されないんじゃないか?

時間に縛られる立場がいいわけないから、
会社員のような立場を辞めたいと思うようになった。

たとえどんなにワサビが嫌だったとしても、
喜んで食べるのが大人っていう生き物だってことに、
俺は心底納得できなかった。

輝いて見えた「成功者」たち

俺の自己啓発の走りは、プロブロガーの先生の教えから始まった。

ブログを教えてくれた先生は
「自分の好きなことを仕事にしている」人だった。

会社など上から指示されたこと以外のことを仕事としている、
今まで出会ったことがない人種の人。

先生のブログは実際に月間1000万アクセスを叩き出しており、
ブログだけで生活費をまかなえている。

会社の上司じゃ俺のロールモデルになり得ない、
この人こそ俺を導いてくれる「救世主(メシア)」なのだと。

俺が先生をカリスマとして崇め、心酔するのに時間はかからなかった。

その先生はよく
「ブログを毎日書くのが大事、書いてくうちに好きなこと、大事なことに気づく」
「好きなことをブログに書こう」

と言っていた。

先生を信じてやまなかった俺は、心酔している先生のように、
ブログで一山当てようという発想が芽生えた。

具体的に何をしたいかわからないまでも、
あわよくばブログで一山当てれば会社行く必要もない、
だからまずはブログを書くことにした。

うまくいった人のマネさえすれば間違いないと思った。

実際にいいところに住んでいて会社に縛られる生活から
自分の思い通りの生活を描けている成功者に魅せられた。

諦め続けるばかりだった自分の人生に
終止符を打てるんじゃないかって期待をした。
そして諦めない人生を送った人を前にして羨ましいって思った。

俺にとって、思い通りの人生を送れる人ってのは、
本当に限られた人の特権なんだって思ってた。

「成功者」になって、その特権を掴みたかった。

「成功者」になれなかったのは「誰のためにも頑張れなかったから」

どれだけ焦がれていても、どれだけ動いても、
俺は成功者になれなかった。

それ以上に、ブラック企業で逃げられない過酷な激務を叩きつけられた。

当時いた会社は大企業ではあったが、旧態依然とした体質が目立つ、
パワハラが常態化してる現場だった。

おっかない顔をしたオヤジが、自分の部下に対して大声で怒鳴る。
そんなのが日常茶飯事でいつもビクビクしていた。

「明日は我が身」と恐れおののく日々。


「誰かのために成すことが起業であり、誰かのためにがんばれるのが起業家」

とは起業塾で教わったんだが、
ブラック企業で苦心する現状からいって
誰かのために頑張る前に、自分の保身で精一杯だった。

俺が起業でもブロガーとしても成功者になれなかったのは、
「誰かのために頑張れなかった」
ことに尽きる。

「心からこの人のためになんとかしたい」って俺が思える人が、
俺の周りに誰1人としていなかったのは事実だったが、

どれだけ意識高くいきりたっても、誰のためにも頑張れなかった。

あの当時、広く浅くの付き合いが多かったといえばそれまでだが、
俺が作ってきたつながりというものが、
その程度でしかなかったという悲しい現実であることを裏付けていた。

何においても俺は心身を疲弊しきっていたので、
「クライアントのために、徹夜してでも起業成果物を仕上げる!!」

という先輩方の熱意には遠く及ばなかった。


メンターを頼るのをやめた

当時の俺の周りには起業家の先生(メンター)、金融関連の智者、
自然とともに生きる賢者、健康に詳しい覚者
実にたくさんの賢者がいた。

一刻も早く会社を辞めたかったから、ことあるごとに毎日質問をしていた。

賢者に質問をするということは、
「自分の導き出した答えに対して答え合わせをする」
という意味合いがあってのことである。

ただある時、質問しすぎで自分の意志を誰かに丸投げしてないか?
ということに気づいた。

自分より知恵のある人に質問をしまくるというのは

「自分の芯がなってない、自分の意見がないという自信のなさがあるから」

だから、自分より「力」のある人にお伺いを立てないとやってられなかったのだ。
自分の力だけでやっていると間違いを起こすし、
それは間違いだと他者からも指摘される。そういうことを極度に恐れていた。

その恐れに気づいてからは、賢者たちに質問することをやめていった。

そしたら、ブラックだと思ってた職場でも、
どういうわけか苦手な人間にアドバイスを求める機会が減った。

というより、職場で困ったことがあった場合、
その場しのぎの誰でも彼でもを捕まえてアドバイスを求めるというより
適切な人間にアドバイスを求められるようになったというべきだろうか。

答えのない、わからないことに対して答えを求めすぎていたのかもしれない。

苦手なタイプの人間に頼ることは少なくなり、なぜか自然と関わる機会も減っていった。

相手に何かを求めちゃいけないし、相手を見ないこと。
相手の顔色を見るのだと親の顔色を伺ってた時となんら変わらない。

見るべきは自分である。
自分が自分とどう付き合ってるかを見て
それを変えていくしかない。

その積み重ねをしていったら、メンターに頼るのもやめて、
起業に抱いていた幻想も無くなっていったのであるー

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