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実家が消えるとき


「悪い知らせ」は日常の何気ない瞬間に降ってくる。実家がなくなる、という知らせがあったのが、1ヶ月前のことだった。

私はそのとき自宅にいて、仕事がひと段落ついた昨日と変わらない午後を過ごしていた。スマートフォンがステンレス製の棚を震わせ、ジリジリと虫の羽音のような音を鳴らし、私に着信が入ったことを知らせた。

午後12時28分。急用でしか連絡をとらない、伯父からの着信。訃報ではないかと考え、何人かの顔を思い浮かべながら電話にでると予想ははずれた。しかし、すぐに心拍数が跳ねあがり、心臓の低く速い鼓動が内側から鼓膜をふるわせた。

 差し押さえ、家庭裁判所、家を売り払う。物騒な単語が休むひまなく続く。私はただ、返事をするしか術が思い当たらなかった。「実家がなくなる」という自体を知ったあと、布団に潜りこみ、いざ眠ろうとする時にかぎって電話の内容がまぶたの裏側で再生された。寝付けない日が数日続いた。

 いつもの日常を取りもどし、夜も眠れるようになったころ。伯父と同居する伯母から「おばあちゃんの押し花があるから、いるなら取りにきなよ」と連絡があった。いよいよ実家が別の誰かにわたる、準備段階に入っているらしい。

 父子家庭だった私は、14歳で父と死別した。そのころから両親はいない。本来「実家」と呼べる場所はないはずだが、伯父・伯母が住む家は唯一「実家」と呼べる存在であった。ここには伯父、伯母のほかに祖父、祖母、いとこも住んでいた。おまけに2匹の猫。仕事人間だった父に代わり、3歳〜6歳まで育ててくれたのが、実家とよんでいる家にいた親族たちだった。父もこの家で育った。父にとっても実家であり、私にとっても実家なのだ。

 人格を形成をするのに貴重な時期をこの家ですごした記憶は、今後、決して消えることはないだろう。実家ではないのに実家と呼ぶことに対し、親族一同どう思っているかは分からない。でも、実家と呼ぶのにふさわしいので、勝手にそう呼んでいる。





 休日の午後、私は祖母の押し花を受けとりに、自宅から歩いて40分の場所にある実家にむかっていた。千葉県郊外にある、迷路のような住宅街の間をテンポよく歩いていく。似たり寄ったりな家々が続く。古い家と、新しい家が入り混じっている。この日は、歩いていると胸元や背中がしっとりと汗ばむくらいの陽気だった。風が吹いても、その汗はいっこうに引こうとしない。パーカーの前側をあけてTシャツをパタパタとさせて風を通しても、あまり意味がない。今年の夏はきっと暑くなるのだろう。

 実家の前に着くと、カバンからiPhoneを取りだしシャッターを押していた。看板を撮影するためだった。家業を営んでいたこの家は、表玄関に店の名が書かれた看板が縦むきに掲げられている。身長166cmある私の背丈よりも何倍も大きく、全体を視界に入れるには首が痛むほど傾けなければならない。看板の汚れ、文字の掠れから、何十年、いや私が生まれる前から掲げられていたのだと伺える。

 ここには思い出が多すぎると、私は思った。表玄関に止められたトラック。作業場の角に追いやられた、ホコリを被りきった道具たち。色褪せて変色した、何十年も積みあげられ続けた木材を眺めながら、私はこれまでの時の流れについて思いを馳せていた。

 看板の前に親族一同があつまり、記念撮影をしたはるか昔を思い出す。横にずらりと並ぶ。その中に薄っすらと、母がいた記憶がある。私は母の膝の高さほどの大きさだった。マレーシア人の母とは3歳で別れ、18歳のときに再会したが、その後は生きているか死んでいるのかもわからない。そしてどこで見たかも不明瞭な、私が生まれる前に撮影された集合写真も思い出す。すでにいない者のほうが多かった。中には知らない者もいた。

 これまで幾度となく撮られてきた集合写真と同じ構図で、私が今、写真を撮る。あと数ヶ月後にはなくなってしまう実家を撮る。もう二度と戻ってこれない実家の写真を撮る。本当は実家とは呼んではいけない、ひと言では表せられない思いの詰まった家の写真を撮る。そうすることで、ここに関わった人たちや各自の思いが、消えずに残るような気がしていた。



 実家の裏手にまわり、じゃり道をすすむ。右手には太陽と雨をたっぷり注がれて生え続けている青々とした雑草たちが、風に流され左右にゆれている。その風は私の肌も、心地よく撫でるように通りすぎていく。

 裏玄関のチャイムを鳴らすと、元気のよい返事とともに伯母が出てきた。マスク姿の伯母からのぞく目元には細かいシワや、靄(もや)がかかったような肌質は、以前会ったときと比べるといくらか増している気がした。

 伯母に案内されながら幼いころと変わらない砂壁に囲まれた、急な階段をあがる。木製の段を踏みこむたびに「ミシリ」と音が鳴る。左手にある砂壁に空いた穴も、昔から変わっていない。階段をあがりながら、その穴に触れる。崩れた砂がついた指先をすり合わせて、ザラリとした感触を確かめながら階段をのぼる。

 階段を登りきるとすぐに、祖父母の部屋がある。6畳の部屋が2つ、廊下を挟んで向かい合わせにある。ひとつはタンスが3つも置かれている部屋。自由に動けるスペースは中心部分のほんの3畳ほどしかない。私が住んでいたころはその中心に布団を敷いて、祖父、祖母、私の3人で寝ていた。

 昔は床一面に物が散乱していたが、すでに処分したようだった。もうひとつの部屋には、タンスが2つ。その上にガラクタで覆い尽くされているだけだった。タンスの上のみならず、部屋のいたるところには団子状になったホコリが無数にあった。部屋の左端にある掛け軸は年季が入ってくすんでいる。その下に積まれた巻物たちもまた、ホコリに侵食されて灰がかかったようになっている。

 ホコリに侵食された一帯に、額縁に入った押し花が積みかさなっていた。押し花は祖母の趣味だった。庭で咲いているパンジー、ポピーの花、貧乏草や使えそうな雑草をティッシュに包んで分厚い本に挟んでおく。数日すれば押し花のできあがり。それらを何枚も使って、リースや花束を描いたアートを作っていた。友人たち4〜5名を招いていたときもあった。

 同行した伯母が「汚い」「痒くなりそう」と言いながら、指先だけで額縁の隅をつまんで、乱雑にひとつひとつ畳のうえに広げる。私も額縁の隅をつまんで、眺めてみる。次第に、水分と油分がうばわれるような粉っぽさが指先全体に広がっていく。祖母の作品たちは、10点ある中でほとんどが色褪せて茶色くなっていた。ただ、1つだけを除いて。青のパンジーの花で、ドレスを着た少女を表現した作品だけが生きていた。あと数ヶ月もすればなくなる実家の記念品のひとつに選んでみた。

 ほかに何かないかと、適当にタンスの引き出しをあけてみる。ほとんどが洋服と書類だった。書類の中には「おばあちゃんへ」という宛名の手紙があり、開けてみると「いつもめんどうをみてくれてありがとう」と書かれていた。文末には私と、いとこの名前があった。送ったことすら覚えていないのに、とってあるなんて。

 唯一使えそうなものは、パールのネックレス、橙色の天然石のネックレス。アメジストのような紫色の石が埋まった指輪。祖父が使っていた二眼レフカメラだった。「持って帰るよ」と、ひと声かけなくていいのだろうか。老人ホームにいる、祖父母の顔が浮かぶ。でも、もう帰ってくることはないだろうし、これらの品物をふたたび使うこともない。そもそも、何がどこにあるかさえ覚えていないだろう。罪悪感を紛らわすためにこんな考えに至る自分にも、居心地の悪さを感じていた。

 祖父母の品物を抱えながら物色をしていると、幼い頃の記憶がつぎつぎに蘇ってくる。まだ私が幼稚園生だったころ、腰まである長い髪を結ってくれたのは祖母だった。幼稚園の制服姿でイスに座り、後ろに立った祖母がブラシで髪のほつれをとる。「今日は二つ結びがいい」「今日は三つ編みがいい」と、わがままを言ったような気がする。出来栄えが悪いと不機嫌になった記憶もある。あの頃の祖母は今のように、不思議な言動はしなかった。

 今はすっかりボケてしまい、やることと言えば「寝る」と「食べる」の2つしかない祖父。実家から最寄り駅までは、徒歩30分はかかる。今では考えられないが、祖父には車で送り迎えをしてもらったこともある。

 小学校に登校する日の朝は、祖父母が表玄関にでて見送ってくれた。しばらく進んで立ち止まり後ろをふり返ると、祖父母はまだ2人並んで立っていた。身長140cmと背の低い祖母は、さほど大きくない祖父の横に並んでいるだけで小人のようにみえる。その小人は、私にむかって胸のまえで手を左右に振っている。

 私の脳裏には遠くにみえる祖父母の小さい姿が、すぐそこにありそうなほど現実味を帯びた形で浮かんでいた。タンスの上に無機質に立っている日本人形が、こちらを見ていた。





 物色が終わると、私は実家のリビングにあるテーブルの前でくつろいでいた。スギの木1枚で作られた、子供の身長ほどある長いテーブル。職人の伯父が手作りしたものだった。そういえば、このテーブルは私が12歳のころからある。木目は黒ずみ、細かい傷がついているが、それがむしろ味わい深さになっている。私は伯父この技術が、誰にも受け継がれずに消えていくのだと考えた。

 伯父は弟子をとらなかった。正確に言えば、弟子はいたが途中でやめてしまったのだ。何年も伯父のそばで働いていたその弟子は、ある日突然やめた。手紙を残して。

 そう考えていると、目の前にA4サイズの2倍はありそうな大きさの白いアルバムが現れた。くつろいでいる私の横から、伯父が何も言わずに差し出してきたのだった。その渡し方は「ほれ」と言わんばかりだった。表紙には何も書かれていない、ただの大きな正方形のアルバム。

 めくってみると、実家に関わってきた人たちのモノクロ写真が一枚一枚丁寧に入れられていた。私はその写真を各自の表情がわかるくらい、服の模様もわかるくらい、同じように丁寧に眺めた。

 赤ん坊のころの父の写真。若い祖母がバンダナとエプロンを身につけて、家庭菜園をしている写真。小学3年生くらいの半袖短パンの父が、兄と並んでいる写真。前歯が数本ない。

 富士山を背景に、凛々しい姿で立っている軍服姿の祖父の写真まである。そばには着物姿の若い祖母と、スーツ姿の若い祖父の写真。結婚したてのころだろうか。

 机の前に座り、笑顔で受話器をとっている祖父。肩をすくめて戯けた様子だった。その祖父の笑顔には一家の大黒柱としての、社長としての自覚があるようにみえる。




 実家からの帰り道、私は車がとなりで激しく行きかう歩道をすすんでいた。排気ガスの混ざった風をあびながら、遠くに見える家々をながめて最寄り駅までむかう。なぜか、そういう気分だったのだ。考えたところで、正しい答えなど出るはずもないことに、思いをめぐらせたくなる気分に。

 変わらないアスファルトが続く。モノクロ写真にいる若い祖父母、少年時代の父。人生とは一体何なのだろうかと考える。自分の将来は続くだろうと、希望に満ちていた少年時代の父を思う。その頃から、50歳でなくなると決まっていたのだろうかと考える。

 写真にうつる彼らは当時、未来に生まれる孫、あるいは娘に写真をみられるとは想像もしていなかっただろう。自分たちの写真によって「人生とは何か」を考えさせることになるとは思いもしなかっただろうと、想像する。

 もし父が生きていたら、実家がなくなることに対して、なんと思うだろうかとも考える。幼少期から社会人になるまで過ごした思い出深い家が、別の誰かにわたる。どんな顔をするだろうか。もしくは、何かしら援助をして実家がなくなる事態を防げていたのかもしれない。でも、娘の私にはその能力はない。

 前に踏みだす足が合図のように、取り戻せない過去、止められない時間の流れに対する思いが、少しずつ身体の中に溜まっていく。一歩、また一歩踏みだすと、胃袋に石が積まれていくみたいに身体の中心がズシリと重くなる。あるいは破裂寸前の風船でもある。その思いで私の皮膚がさけてしまいそうなほどに、膨らんでいくようでもあった。

 ただ、溜まりつづける思いを解決する唯一の”答え”はある。実家でみたモノクロ写真の人々が、それを物語っている。目の前のことを精一杯とり組み、今を生きること。どんな逆境にぶつかっても逃げることなく、正面から受けとめる。写真にうつる人たちは、そうしてきたはずだから。

 モノクロ写真の人たちを想像する。数々の写真たちは脚立を立てて撮影するか、二眼レフカメラを誰かがかまえて撮影したに違いない。撮影が終われば、もとの日常に戻っていくだろう。一家の危機が訪れたり、大病を患うなどの荒波に流されそうになったとしても、日常に戻る。その日常を積みかさねて歳をとり、子は父になり、父・母は祖父母になる。

撮られた写真がこのあと受け継がれるのか、誰にみられるかを気にする暇もなく、自分に与えられた役割を果たすために毎日ひたすらに生きていたのだ。

たとえ、突然降りそそぐ荒波が「実家がなくなる」だったとしても。



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