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青野春秋が漫画家デビューした理由と経緯について

僕は1998年の18歳のときに、北関東の茨城県から上京しました。

理由は漫画家になるためではなく、単純に東京に憧れていたからです。なので上京後はフリーターとして様々な業種でアルバイトしながら好きな本や映画などを観たり、友人と芝居や絵画展へ行ったりと割かし気楽に趣味や興味のあることを楽しんで自由気ままな生活を送っていました。

いくつかのバイト先で「社員にならないか?」とありがたい提案を頂きましたが、『就職してはいけない』という自分でも謎の決まりがあったので丁重にお断りして、なんの目標もなく寧ろ「なんにもしたくないなぁ」と思いながら日々を過ごしていました。

転機は上京から3年後にやってきました。

当時住んでいたコーポがあまりにもボロすぎて、もう少しまともな家に引っ越したいと思った僕は引越し費用を調達するために、賞金目当てでマンガを描いてみようと思い立ったのがきっかけでした。

マンガは幼い頃から大好きで手当たり次第たくさん読んでいたので、僕でも描けそうな気がするという謎で根拠のない妙な思い込みで画材を買ってきて、初めて本格的なマンガを描きました。

タイトルは『スラップスティック』

内容は家族をテーマにしたマンガでした。

そのマンガが、第45回ちばてつや賞優秀新人賞を受賞し賞金50万円を頂戴し引越しすることができました。

その時の授賞式は「いかなくてもいいですか?」と言ったのですが、編集者さんから出来るだけ来て欲しいと言われ渋々参加しました。

その後、編集さんに「漫画家を目指しましょう」と言ってもらい漫画家を目指すことにしました。

始めは某有名な漫画家さんのアシスタントを勧めて頂きましたが、なんとなく弟子入りみたいで嫌だったので、一般的なアルバイトをしながら出版社に通い10日に一回くらいのペースで新作マンガを描いて編集さんに見て貰う日々を2年弱くらい続けました。

でも、打ち合わせではいつも話が合わないし、編集さんが何を言ってるのか僕には意味がわからなかったけれど「そういうものなのかな」と思った僕は不本意ながらリテイクを繰り返しました。

言う通りにするほどに、つまらないマンガになっているなと思いながら。

編集さんの言う通りに描いて編集さんには絶賛されたマンガは、雑誌掲載のために会議に通されました。僕はこれでデビューできると思いました。

結果はボツ。言われた通りに描いたマンガは酷評されて雑誌掲載はされませんでした。

編集さんに意味不明な慰めの言葉をかけられましたが、僕には向いてないやと思いマンガを描くことをきっぱりと辞め、またフリーターに戻りました。

次の転機は2005年にやってきました。僕は25歳になっていて「そろそろ生き方を決めないとな」と思いました。その時もう一度だけ漫画家に挑戦したいという気持ちが湧き上がってきました。ただし、今回の挑戦で結果を出さないようなら今度こそは本当にきっぱりと諦めて就職をし、マンガを愛する一読者のまま生きると決心して再びマンガを描きました。

そんな訳で、第17回イキマンを受賞し漫画家デビューすることができました。

2005年の12月24日に漫画家・青野春秋は誕生しました。クリスマスイブという柄でもない日なので余計に覚えてしまいました。

『イキマン』というのは当時、僕が読んでいた漫画誌で一番好きだった『月刊IKKI』のマンガ賞の名称です。

その時、描いたマンガは『走馬灯』というタイトルで、40歳のおじさんが脱サラして漫画家を目指すという内容でした。

自分がもしデビュー出来なくても漫画家を目指し続けている未来予想図を想像し、そこからストーリーを考えました。なので内容は苦労なく思い付きましたが、主人公の容姿にはだいぶ迷いました。何故なら主人公の容姿がこのマンガの面白さを大きく左右することになると感じたからです。

いくつもパターンを変えて描いてみましたが、どの容姿のキャラクターもピンとくるものがなく悩みました。

そんな時、身近に完璧な容姿の人物がいました。静男にいちゃん。僕の兄上です。(苦笑)

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この時、ちょうど40歳。奇跡の容姿でした。

そのような経緯で『大黒シズオ』というキャラクターが誕生しました。

そして、僕を含め誰一人として予想していない活躍を大黒シズオはすることになりました。

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その活躍が爆発する、僕の連載デビュー作『俺はまだ本気出してないだけ』の話はまた今度。

ぜひ楽しみにお待ちください。








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