削除された「鏡の国のアリス」のエピソード「かつらを被ったスズメバチ」。前回からの続きです。
これが最終回。
紹介しているのは「鏡の国のアリス」のスピンオフとして楽しんでいただけるなら嬉しいなと思ったからです。
前回は大英帝国で最も有名な挿絵画家兼漫画家のジョン・テニエルがスズメバチのエピソードを好まず、絵を提供することを嫌がったという話で終わりました。
ですが、このお話は「鏡の国のアリス」のほかのお話と比べて、それほどに質が落ちるのでしょうか?
「鏡の国のアリス」は名作ゆえにほぼ10年ごとに映画化されています。
面白いのは1998年のイギリスのテレビ映画には、原作から削除されたスズメバチのエピソードが復元されて映像化されていること。
映画監督は削除されたエピソードを映画に含めるに相応しいと見なしたのでした。
小さな女の子のお母さんが本を読み聞かせていると、眠たくなって夢を見てアリスになって鏡の国を旅したという設定。アリスは大人の女性なのですが、鏡の国の出来事は極めて原作に忠実で、映画映像化は大成功だったと言える作品です。
動画リンク、1:04:02の部分からスズメバチのエピソードが始まります。
私としてはアリスが可愛い金髪の少女である1985年のBBCテレビ映画の方が好きなのですが、1998年の映画はスズメバチのお話が含まれていて非常に興味深い。
他にも1974年版、1966年版、2016年版などの「鏡の国のアリス」の映像が存在します。
1982年のソヴィエト連邦で製作されたアニメ版はなんとも極めて独特な絵で物凄くシュール。ロシア的解釈は本当にユニークです。
こうしてインターネットで年代ごとの異なった解釈によるアリスの映画を見れることは素晴らしい。
ですが、本稿は削除された「カツラを被ったスズメバチ」の章を解説する投稿です。
まずはテキストの残りを読んでから、この削除された一章の価値を検討してみましょう。
「かつらを被ったスズメバチ」続き(最後の部分)
ここまでが削除された「カツラを被ったスズメバチ」のエピソードでした。
この後、出版された原作では、芝生のうえに転がって気がつくと王冠を頭上いただいていると言う場面につながります。
どうしてテニエルはこの挿話をダメ出ししたのか?
さてこれで全文を読んだわけですが、詩や言葉遊びも含まれていて、鏡の国に相応しそうなユニークなキャラであるスズメバチも出てくるこのお話、何故にテニエルはこのお話を嫌ったのか?
まずはテニエルが作者に宛てた現存する手紙の該当部分を読んでみましょうか。
確かにテニエルの指摘は作品を短くするには良さそうです。
物語の流れとして、白の騎士と別れてマス目を超えて最後の八列めで女王となるのは自然なことで、ここに余計なエピソードが絶対に必要な理由はないのです。
でも作者はスズメバチのキャラをどこかに入れたかった。
女王昇格の前に女王らしい子供っぽくない振る舞いを見せる必要があると作者は考えたのかも知れません。
絶対不可欠でもないけれども、あることで不具合が生じるのでしょうか?
上記の1998年の映画はこのエピソードをわざわざ採用したほどですが、別に作品のバランスを損ねたりしていたわけではありません。
だとすれば、やはりテニエルはこの「カツラを被ったスズメバチ」のエピソードと相性が悪かったという個人的な理由が存在したのでは、とわたしは勘ぐります。
テニエルという人は、のちに漫画家イラスト画家として史上初めて「サー」の称号をもらうほどに英国に愛されたイラスト画家です。ルイス・キャロルは貰えませんでしたが。
そしてテニエルはプロ中のプロの職業意識を持った人だったそうで、驚くべきことに画家であるのに、片目を失明していたというのです。
テニエルの父親はフェンシングの教師でした。
フェンシングとは上流階級貴族の嗜み。
つまり、そういう良い家系の出身ですが、父親とフェンシングを練習していた折、鋭い剣先を防護している部分が壊れて、その父親の剣が息子テニエルの防具を突き破って、テニエルの右目を痛めたのだそうです。
二十歳の頃の出来事で、それ以来視力を次第に失い、やがて完全な隻眼になっても絵の修行をやめずに世界一のイラストレーターとなったのでした。
肖像画や写真では、左右の開いた目の大きさと形が少しばかり異なるのが確認できます。右目はなんとなく不自然な感じがします。
そういう人ですので、外見のことをとやかく言われることは嫌ったであろうと推測できます。
鏡の国の登場人物たちは口が悪い人たちばかりですが、アリスの外見の悪口をこれほど言う人はここまで誰もいませんでした。
目の悪口の話題はテニエルには苦手で大嫌いな話題だったであろうことは十分に考えられます。スズメバチはアリスの容姿の悪口を目も含めて言及するのです。もちろん、スズメバチ視点のジョークになっているのですが。
またスズメバチがカツラを被り始めた理由は周りの人に言われたからですが、カツラをつけさせておいて、その姿が不恰好だと馬鹿にするのはまさにイジメ。
テニエルはイジメの話題も嫌ったのでは。
「不思議の国のアリス」には悲しい学校体験をしたニセ海亀が出てきましたが、イジメられる話ななかったですね。それに引き換え、ニセ海亀よりもさらに可哀想なスズメバチ!
でも教養ない労働者階級ではこんなふうな話は日常茶飯事で、特にルイス・キャロルの筆禍問題というほどのことでもありません。
現代的にはポリティカルコレクトネスに則れば、この部分は差別的と言われるのかもしれませんが。体裁を重んじる大英帝国の文学としてはやはりふさわしくなかったのでしょうか。
などなど、これらのことを不愉快に思い、テニエルは作画拒否をしたのでは、とわたしは思います。
実際のところ、わたしが前回の投稿で紹介したように、1974年の再発見以降、数多くの画家がアリスとスズメバチのイラストを描きましたが、どれもとても興味深いものです。
内容的にそぐわないからという理由でダメ出しされたのか、テニエルの個人的な嫌悪からなのか、今となっては知る由もありませんが、私としてはルイス・キャロルのアリスの知られざるスピンオフ作品として読めて楽しかったのでした。
落馬ばかりしている、どこかセルバンテスの憂い顔の騎士ドンキホーテのパロディにも思える、白い騎士の姿同様に、老スズメバチの老いの悲しみが込められた一遍。わたしはそう思います。
「鏡の国のアリス」の正規版には決して含まれることのなかった幻のアリスの物語。
不思議の国の陽気さが失われている、どこか不気味で寂しげな鏡の国の老いた人たち。
アリスがこれからの人生で出会うであろう人生の真実だったのかも知れませんね。
わたしには「鏡の国のアリス」は、前作よりも人生の深みと翳りを湛えている、とても悲しい物語なのです。
わたしはドジだけれども心優しい老いた白のナイトが大好きですから。
多様な読み方が可能な名作
最後は笑えるエンディングにしましょう。
「鏡の国のアリス」にはたくさんの笑える場面があるのです。
走って走って喉が渇いたアリスに赤の女王はこう言います。
こういう意地悪が何度もアリスに繰り返されるのですが、アリスは常に
あろうとします。
喉が渇いていれば、欲しいのは一杯のお水ですよね。でも喉が渇いたと言う女の子に乾いたビスケットを差し出す女王!
でも実は意地悪ではなく、わたしとしては、赤の女王も発達凸凹で相手の気持ちがわからないのだと解釈します。きっと女王はビスケットが大好きで、どんな時にも気前よくビスケットをあげるのだと思います。基本的にはいい人なのです。こういう人は実際にかなりいるものです。
彼女には悪気はない!
喉が詰まりそうになりながら必死にビスケットを飲み込むアリスの隣、いいことしたと微笑んでいる赤の女王!
こういうおかしみがルイス・キャロルの真骨頂ですね。
不思議の国も鏡の国もそう言う人たちでいっぱいなのです。
最後の詩に名前を隠されたアリス・リデル (英語的にはリダルかリドルの方が正確なカタカナ表記)と作者の関係を考慮しないならば、「鏡の国のアリス」はやはり、言葉遊びの詩とダジャレが大好きで、ノンセンスで不思議な人たちと出会える笑える本でしょう。
心理学的には、礼儀作法を何よりも重んじるヴィクトリア英国の定型発達の普通の女の子のアリスが、発達凸凹な人たちで溢れかえる不思議の国と鏡の国で、ヴィクトリア時代の決まりやしきたりを守らない発達凸凹な人たちに揶揄われる物語、と解釈することができるでしょう。
その上に数学パズルやマニアックな謎解きなども隠されていて、いろんな読み方ができるのがアリスの物語の魅力。
数学ジョークの例、今度は白の女王との会話から:
何度読んでもいろんな読み方ができる作品はやはり古典に相応しい名作です。
子どもの頃に読んだけれどもよくわからなかったと言う方にこそ、大人になった今、是非とも読み返してほしい作品です。特に英語で読むと日本語訳で意味不明な部分の意味が目から鱗のように解き明かされます。
読了ありがとうございました。