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大願応報

 もしもあなたが全知全能だとして、その人生で何をするだろうか。

  この世が上位者の作った仮想の宇宙、シミュレーションである可能性について、今はまだ全く否定出来ない状態にある――そんな仮説をどこかで耳にしたことはあるけれど、今の私には仮説だなんて謙虚な言い回しは必要ない。この世は全く、徹頭徹尾がシミュレーションだった。

 それはとある凡庸な一日の朝のことだった。
 洗面台の前でぼうっとしていた私は、寝癖のついた腑抜け顔とまんじりと見つめ合いながら、なんとなく会社に行きたくないと思ったのだった。
  しかしそれでも結局はスーツを来て玄関を跨ぐのだろうと想像していたけれど、実際はそうはならなかった。

  何故か。それは私が鏡の寝惚け顔に願ったからだ。

「この世界のチートを下さい」と。

  目に見えない何かがすとんと頭の中に落ちてきたような気がして、私は寝癖を直すついでに頭を掻いた。それでもまだ何かむずむずするので、心のなかで「痛いの痛いの、飛んでいけ」と願った。以来、私からは痛みという反応が消失した。

  はるか昔のことだけれど、とあるテレビゲームでチートと呼ばれる機能を使ったことがあった。それはゲーム内にて隠しコマンドを入力すると、攻略に有利な様々な条件を手に出来るものだ。実装されているすべての武器を入手する、好きな車を手に入れる、無から大金を引き出す、敵を好きに生み出して、好きに殺せるなんて趣味の悪い類のものまで、チートは多種多様に存在した。
  子供だった私は、これが現実だったらどれだけ良いかと思ったものだ。

  好きな時に好きなだけ寝て、遊んで、金は無限に在り、お母さんにも怒られない。
  小学生にとってそれは大願だろう。
  痛みがすっかり消えてなくなった時、私はまだ自分の力を信じてはいなかった。まるでスプーンでこそぎ取るように痛みだけが消えてなくなったのは不自然に思ったもの、不思議なこともあるものだと感じただけだった。

  そして私は次にこう思った。
「今すぐ会社が潰れますように」
  それからテレビのニュースを数分間眺めていると、ニュース速報が入った。曰く、私が勤めている会社の建屋が、何の前触れもなく綺麗に潰れてしまったとのことだった。

  この段に至っても、私はどうも冷静だった。信じない、というよりは、夢を見ているのだと思った。夢ならばと指を降ってみると、またたく間にテーブルに大金が現れた。

  コーヒーメーカーのアラームが居間まで届くと、私は立ち上がりコーヒーを取りにキッチンへ向かった。棚からカップを取り出して、引き出しからスプーンを一つ取り出す。ついでにゴミ箱のゴミ袋を交換して、流し台のネットも交換した。

  ここはしがないサラリーマンの1LDKマンションだけれど、夢にしてはディティールの細かい部分までが正確だった。人間の脳とは一体、大したものだと私は思った。

  コーヒーを持って居間に戻ると、テーブルの大金は取り出した時のまま、机に放り出されていた。私は何となくその中の一束を手に取ると、通し番号を確認してみた。番号はばらばらで、どうやら被りもなさそうだ。
  いやぁ、不思議なこともあるものだ。

  まるで現実のような夢の中で、私は自分の限界を試したくなってきた。つまり、夢では再現が不可能な現象を起こしてみようと試みた。そして私は行ったことも聞いたことものない、とあるスイスの田舎町へ瞬間移動してみようと思いいたり、その瞬間にその場所へ辿り着いた。

  そこはスイスのアッペンツェルという小さな街の外れで、とても寒かった。すぐに「寒さよ消えろ」と念じ、私は以来、寒さを感じなくなった。

  ようやく私は少し怖くなった。念じたことが現実になる、夢ーー夢と言うには、その街の情景はあまりにもリアルだった。ぼんやりとその場所を彷徨い歩いていると、朝の散歩をしている老人がこちらを訝しげに睨んだ。それは当然の反応だと思った。こんな田舎町の閉鎖的な朝の景色に、パジャマ姿で裸足の日本人はあまりにもそぐわない。

  独特な牧歌的な建物、足の裏に伝わる石畳の感触、通り過ぎる車のエンジンの排気音、感じられる汎ゆるものに偽物じみた要素は一つも無く、その地に伝わる匂いまで、どうやら本物らしかった。

  結局ぐるりと街を廻ってしまい、痛みを感じない私は身体の疲労に気付かずに、足が動かなくなってようやく大変な距離を歩いたのだと気が付いた。私は次に「無限の疲労回復」を願った。以来私は疲労を感じなくなった。
  市場を抜けた先にある小さな広場のベンチに座り、私は頭を抱えた。
  もしこれが現実だったら、どうしよう。

  そんな漠たる恐怖がつま先から湧き上がっていた。

  いつまでもこんなところに居たって仕方がないと思い至り、私は次に、「元に戻れ」と念じた。ところが不思議なことに、この願いは天に届かぬようだった。
  改めて「自宅に瞬間移動」と念じてみると、まるで鳥が空を飛ぶように、奇跡が当たり前に顕現した。テーブルの上の札束と飲みかけのコーヒーを見やり、いよいよ私は本当に怖くなり始めたのだった。

  こんな状況は、小学生の私だったら飛んで喜ぶ。いや、今の私でも飛び上がりたい。
  けれど私はそれよりも、とにかくこれが現実だとしたら、という恐怖で震え上がりそうだった。居ても立っても居られなくなり、私は携帯電話を手に取った。時刻は朝の9時を過ぎたところ。常ならば今頃は、既に自分の机に向かってPCを眺めている時刻だった。会社のメーリングリストから、多数のメールが届いている。他にもいくつかの着信とメールが届いていた。私はそれらをすべて無視する。とにかく、それどころでは無かった。

  私は震える手を我慢しながら、「夢乃涼子」にダイヤルした。3コールの後、彼女は通話に応答した。
「良かった……」
  開口一番に彼女はそう言うと、すぐに鼻をすする音が聞こえたのだった。
「電話通じないからどうなってるかと、まさかってこともあるし」
  そう、そうなのだ。
「…… 何が?」
  すっとぼけた私の返答に、いよいよ彼女は怒り始める。
「何がって、ビルの倒壊だよ。ニュースで見たから」
  ずきりと胸が痛んだ。それは今は感じない筈のものだった。

  それはゾワゾワと全身に広がり、身体の内側から無数の針で皮膚を突き破るように暴れた。私は全身が針で覆われた細長い虫を想像する。虫自身が痛みでのたうつように全身を行き来して、私は苦しいどころか、今はありがたいとすら感じた。どうしてそう感じるのか、それはよく分からなかった。
「本当に倒壊したの?夢じゃなくて?」
  全く私は、どうにかなってしまったのかもしれない。

  それからは泣きじゃくる彼女をなんとか慰めて、きちんとした男の振りをしてやり過ごした。願いとやらで彼女を静かにできたのかもしれないけれど、今はもう、この力を無闇に使う気にはどうしてもなれなかった。もう私は何も願ってはいけない、そんな言葉が脳裏で閃くと、なんて不幸を抱えたのだとまた胸が痛みはじめた。

  携帯電話を手に持ったまま、私はとぼとぼと居間のソファへ腰を降ろした。
  恐る恐るテレビを付けると、ニュースには見覚えのある場所が映っていた。それは昼休憩にはよく通う、近所の中華料理屋の前だった。
「ビルは昨年耐震の点検を受けたばかりで、建築基準も守っていたとのことです。現在入っている情報によりますと、倒壊時、ビル内部には37名の人が居たとのことで、現在も救出活動は続いています」
 私はいよいよ愕然とした。札束の手触り、朝の市場の匂い、ニュースの現実感、彼女の声、身の内の痛み、もう何もかもが本物としか感じられなかった。
  はっとしてすぐに、私はビルの瓦礫を消そうと思い至った。ニュースを見ていると時間差で瓦礫が一瞬で消え去る光景が放映された。コンクリートを打ったばかりのようなのっぺりとした地面だけが残り、その上には痛々しい数々の遺体が、はっきりと映り込んでいた。
  私はすぐに念じた。

「もとに戻せ」

「生き返れ」

  しかしまるで誰かに遊ばれているかのように、その願いだけは聞き届けられないようだった。そして小学生のころに遊んだ、ゲームのチートを想起した。今に至れば、馬鹿馬鹿しいとは少しも思わない。これはとあるルールの上に私に齎された災難だ。

  昼を過ぎ夕方になると、いよいよニュースでは死傷者についての報道が始まっていた。死者は24名、重体が6名、重傷が8名とのことだった。
  私は汎ゆる手段を用いてこれを無かった事に出来ないか試みたが、結局は何もうまくはいかなかった。私が用いるあらゆる奇跡は、どうやら世界にとっての常識となるらしく、ビルの瓦礫が一瞬で消えようが、どこからともなく世界中の名医が集められようが、誰も疑問を感じないらしかった。しかしそれで事態が好転することは何一つ無く、世界中の名医が集められたことによる二次被害すら起こり始めると、私はもう何もするべきでないと思うようになった。

 全知全能が笑わせる。
  朝のコーヒーは飲みかけのまま、差し込む月の光を鈍く反射している。
  そして私は思ったのだった。この世はシミュレーションで出来ている。私を見下ろし観察して遊んでいる誰かのせいで、私はこんな憂き目に遭わされている。この件について責任の所在を求めるとしたら、私はそいつ以外にあり得ないと考える。
  そうして唇を噛んでいると、血の味が舌に伝わった。悲しいことに、痛みは全く無かった。

   罪。

  どれだけ責任を逃れる言い訳を積み重ねたとしても、身の内でのたうち回る針の虫は鎮まりそうになかった。それは私自身が罪を感じていることの証左でもあった。確かに、私は会社につぶれてしまえと願ったのだ――

  今こそ大願叶う時、私はその力を持っている。
  膝を抱え丸くなると、最後に願いを心に込めた。

  以来、私は何も感じなくなった。



著/がるあん
絵/ヨツベ

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