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清里の父、ポール・ラッシュの人生から信仰と使命感を考える

2017年10月、私は妻と山梨へ旅行をしました。その際、ポール・ラッシュ記念館というところに立ち寄り、彼が残した足跡を見ているうち、これはすごい人がいたもんだということで伝記を1冊買って帰りました。これを読んだのは約3年前ですが、最近ちょっと使命感というものについて思うところがあり再読しました。というわけで今回は読書感想文を兼ねて、信仰や使命感の意義について考えていきます。

日本に賭けたポール・ラッシュの生涯

まず、伝記から文章を拝借する形で、ざっとポール・ラッシュ(以下、ポール)の人生について見ていきます。ポールがいかに日本一筋だったかが分かると思います。

昭和33年、ポールの手記より:

「子供の頃はごく普通のアメリカ人がそうであるように、ルイビル(ケンタッキー州の市)のキリスト教教会と関わりながら成長した。なぜなのかも分からないままに日々の祈りの日課に従っていた。(中略)高校から大学に進む年齢の頃には日曜の礼拝など教会活動にはあまり熱心でない米国聖公会信徒になっていた」

1916年(大正5年)2年制の商業高校卒業後、L&N鉄道の文書ファイル係を1年、20歳くらいでケンタッキー・スタンダード石油の貨車輸送関係の係員に転職。
第一次世界大戦が始まると軍隊に志願し、戦争終結により1919年ルイビルに帰還。1923~24年、オハイオ州クリーブランドのホテルで副支配人を務めたことで、若いポールは偉大なホテル支配人になる夢を抱くようになった。

1925年、彼の野心を知る友人から、国際YMCAがエルサレムに国際学生ホステル・センターを建設するという話を聞き、YMCAのスタッフに志願。しかしYMCAから、関東大震災で破壊された東京と横浜のYMCA会館再建のため日本に行ってもらえないかと言われる。
自由と冒険に憧れていたポールは、「エルサレムでも日本でもどっちでも良かった」(ポール手記)ため快諾。この偶然が、自ら復興に関わった聖路加病院で82歳で亡くなるまで半世紀に渡って、日本でのキリスト伝道活動に従事する運命の引き金となった。

来日から1年、北米YMCAから日本への送金作業が一段落し、30歳の節目を迎えようとするポールは早くアメリカに帰って、またホテルマンとしてのキャリアを積まなければならないと感じていた。採用を約束してくれていたホテルもあったが、乃木坂に米国聖公会が建てた東京聖三一教会のビンステッド司祭から(東京着任当時から親しくしていた)、立教大学の教育宣教師として聖公会の伝道を手伝ってほしいと何度も説得され、ついに1年だけの約束で日本残留を了承。以降、結果的には戦時を除いてずっと日本に留まることになる。

その頃のポールはまだ宣教師としての自分に自信がなかった。たばこは吸うし酒も飲むし、他の模範にできない生活ぶりはYMCAの会員から白い目で見られ、「オレみたいな日曜の礼拝も熱心にしてこなかった人間が仲間入りできる世界ではない」という心境だった。

立教大学で教える学生たちは、30手前のポールとそう年齢が離れていない。「オレは聖職者ではなく、ただの平信徒の宣教師だ。人を導くほど信仰も熱心でなかった。一体どうすればよいのか」。あらゆる教会団体に情報提供を求めるうち、ポールは聖徒アンデレ同胞会(BSA)のハンドブックを手に入れる。
アンデレは12使徒のなかで最初の弟子となった漁師であるが、キリストの弟子になるとただちに活動を始めた。「聖アンデレは伝道に十分な修行や経験を積む前に、まず身近な人をキリストのもとに連れてこようとした・・・(中略)布教の仕事は私には経験もないし資格もないと言い訳をしていた自分の不明に気がついた」という。

こうしてBSAにより瑞々しい青年運動としてのキリスト教観を獲得したポールは、「異教徒の地で、この学生たちのためにも、もう後には引けない」と、自らの大きな使命を発見。そして昭和2年、BSAの日本支部を発足させた。

同じ年、立教大学設置者のジョン・マキム主教と聖路加病院長のトイスラー博士の間で、震災復興の新病院建設計画が話し合われていた。トイスラー博士の希望により、マキム主教はポールに出向を要請。ポールはしぶしぶトイスラー博士の私設秘書になることを了承し、米国での募金活動を手伝うことになる。

トイスラー博士はバージニア州の医科大を卒業して同州リッチモンドで診療所を開設したが、23歳の夏に妻の兄が聖公会伝道局から中国へ医療ミッションとして派遣されたのを見て、自身も伝道局に志願する。たまたま日本に設置された聖公会診療所が閉鎖されていることが分かり、母をリッチモンドに残して同年12月に日本へ出発した。

以降トイスラー博士は35年に渡り、ひたすら聖路加病院の建設と医療改善のため働いた。聖路加病院の開院式が昭和8年6月に行われた翌9年、54歳で博士は倒れ、リッチモンドに帰ったが最後は周囲の反対を押し切って日本に戻り、聖路加病院で息を引き取った。また2年後の11年にはビンステッド司祭とともにポールの進路を変えさせたマキム主教が死去。2人の恩師を亡くしたことが、後任者としてのポールの使命感を盤石のものにしたように思える。

それからのポールの主な業績を、ざっと見てみると次のようになる(背表紙から引用・一部修正)。

1934年 アメリカンフットボール連盟を創立
1938年 八ヶ岳山麓に清泉寮を建設
1942年 日米開戦に伴い米国へ送還
1945年 GHQ将校として帰京
1948年 清里農村センター建設に着手
1949年 GHQを退役。米国各地で募金を開始
1956年 KEEP(Kiyosato Educational Experiment Project)協会を創立
1959年 高根町名誉町民(清里は北巨摩郡の高根町にあった)
1962年 山梨県文化功労者
1979年 聖路加国際病院で死去、享年82

ポールの信念は、貧しい地域への民主主義の伝道とは、その地域の人々が「自分たちの問題を自分たちで考え、討議し、解決し、自立して生きること」を助けるものでなければならない、というものだった。単なる送金でこのことは為し得ないのであり、そのためポールはグラスルーツ(草の根)・リーダーシップの育成としてのキャンプ事業や、酪農など栄養価の高い食糧農業、当時として世界最先端の医療・保健、そして戦後日本の青少年に希望を与えるための信仰、これらを4本柱とする伝道に生涯を捧げた。キープ協会はその集大成である。

これだけの貢献にも関わらずポールが日本で突出した知名度がないとすれば、清里という一地域における草の根民主主義の伝道という活動の地味さによるものかもしれない。実際この伝記のタイトルも「清里の父 ポール・ラッシュ伝」となっている。

しかし、戦後物質的にも精神的にも全てを失った貧しい日本の状況から新しい社会を打ち立てる必要性において、モデルがなく誰もどうすればいいか分からなかったところに、キープの理念とポールの具体的リーダーシップが登場した影響は大きかった。
実際、昭和30年代から1年間で2万人の人々が清泉寮、高冷地実験農場、聖ヨハネ農民図書館、聖ルカ病院、聖アンデレ教会などを視察し、山梨県以外(国内他県やフィリピン等)にもこのモデルは広がっていったし、米国内の親日世論形成や民主主義伝道モデルとしても大きな影響を与えた。

親日世論の形成という点で印象的なエピソードを1つ挙げよう。日中戦争の頃、ポールの親日ぶりは米国聖公会からも白眼視されていた。そこへの反論として、機関誌・日本聖アンデレクロスの海外版で次のように述べた。

「もし百万人の宣教師が東洋に送られていれば、百万人の日本兵が中国にいることはなかっただろう。戦争は今日のキリスト教徒の怠慢に起因する罪悪だ。(中略)経験から何も学び取ることができないのは大ばか者だ、と言われるが、われわれが東洋での経験から言えることは、キリスト教徒は決して賢くないことが露呈したということだ・・・」

そこには、日本人の中国での行動を批判し、制裁ばかりに思いをめぐらす米国世論に反省を求める精一杯の訴えが込められていた。

真珠湾攻撃が間近に迫った頃、伝道師たちは日本政府から弾圧されており、アメリカに呼び戻される者も多かったが、ポールは強制送還されるまで日本で伝道を続けた。送還された後、早く日本に帰りたかったポールは軍に志願し、当時アメリカ国内で迫害を受けていた日系二世らを主なメンバーとする陸軍情報部日本語学校(MISLS)の教官となり、権限をフル活用して日系人の弁護や戦後日本の復興に務め、GHQを退官して以降(日本に対する募金活動を除き)アメリカに帰ることはなかった。

ポールをよく知る浅川勝平元高根町長は次のように言う。

「ポールさんには感謝の言葉しかない。清里のために献身し、私服を一切肥やさず、妻子もなく一生を終わった。あんな人はちょっといないよ。清里が全国に知られるようになったのは全てポールさんのおかげ。その恩は忘れてはいけない」

感想

本書のプロローグには、戦前からポールを知り、最期の日まで彼を看病した聖路加看護大の高橋シュン名誉教授の話が載っています。

「彼は日本人が自立できるよう、全情熱をかけて助けてくれました。お前たちが自立できた日には、他に対して何ができるかを考えろって・・・。やっと日本は経済大国になれたでしょう。おやじさんが、そして米国がしてくれたことは、必ずお返しをしなければならないと思います」

アメリカ人のポールが日本人のためにここまですることに対して、それが彼の生き甲斐なのだとしても、心を動かされずにいるのは難しいことです。本書を見て、自分は何をしてるのかなと思った人は私だけではないでしょう。

使命感という点については、現代ビジネスにおいてキャリアを考える文脈でも下記のように触れられます。両方とも キャリア・ポートレート コンサルティング代表である村上昇氏による記事です。『働き方の哲学』でも出てきますね。

ポールの使命感はキリスト教と彼の周りにいた伝道師たち、彼自身の冒険心や責任感、人の役に立ちたいという気持ち等によって育まれたものです。彼は元々敬虔な信者ではなかったのですから、特に重要な役割を果たした信仰への目覚めと伝道師たちについては全く偶然の出会いだったことになります。使命感は望めば手に入るものではないけれども、もし運良く手に入れば人生の強力な推進力になるということをポールの人生は示しています。

多くの人間という歯車が噛み合って社会全体が回っていると考える時、その中の1つの歯車になり、そのこと自体を意識し、やりがいと適性を感じ、自分という歯車が抜けると社会が回らなくなる(たとえ僅かな人数でも、自分がいないと困る人たちがいる)と感じることが、使命感に繋がるように思います。ポールの場合、信仰心はその使命感をドライブし、迷いを断ち切る影響を与えているかのようです。

宗教というと、盲目的であるとか、非科学的であるというイメージがあり、実際ポールは日本で幸せになれたのかというと微妙なところもあると思いますが(詳しくは伝記をご参照あれ!)、浅川勝平元高根町長の言葉に代表されるように、ポールに助けてもらった人々は心の底から感謝しているわけです。なので少なくとも、ポールの利他的行動は自己満足ではありません(自己満足というのは他人は満足しないということですから)。

そのことを思う時、神がいるかいないかという論争はどうでもいいのではないかという気になってきます。私は今のところ無神論者だし、それはそれで良いと思っていますが、自然科学はそれのみで世界観を作ることはできません。無色透明な世界で様々な現実の理由を求め、その理由の理由を求め続けることが自然科学の使命なのだとしたら、それはいつまでも安心を得ることが出来ない苦しい道のりです。

宗教の、少なくともうまくいっている部分というのは、(自分は、世界は)これでいいのか、何故そうなのかという迷いを断ち切り、経験的なできごとの範囲において自然科学と矛盾しない、かつ生きる意味を感じられるカラフルな世界観の中に自分を置くことに寄与しているのではないか。私は本書を読んで、そんなことを思いました。

ポールの生き様は、何か大きなことに挑戦するステージにいる人にも大変刺激になると思います。本書は500ページ近くある厚めの本ですが、面白いので一気に読めます。ポール・ラッシュを知らない方はぜひ記念館に足を運び、本書を手に取っていただけたら幸いです。

ではでは。

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