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ボーダーレスな人生を『ツィゴイネルワイゼン(1980)』

題名:ツィゴイネルワイゼン
製作:日本/1980
監督:鈴木清順
主演:原田芳雄

まずタイトルを聞いたときおしゃれ!と感じたが、実際はサラサーテのバイオリン独奏曲のタイトルであるとのことであった。
いささかタイトルは洒落たものだが、その中身はといえば文章で残すのは意味のない代物のように思えてしまう。

ひとえに人生とは多軸的なものである

主人公は士官学校独逸(ドイツ)語教授の青地(藤田敏八)。今一人の男、無頼で高等遊民(編集部注:エリートだが、経済力があり働かずその日食らしをしている者)の中砂(原田芳雄)を友に持つ。中砂はまさしくツィゴイネルワイゼン=ジプシー(ロマ)のメロディーを体に内在させており、思うがままに旅に出て各地をさすらっている。主要の登場人物はあと、青地の妻・周子(大楠道代)と中砂の妻・園、それから園と瓜ふたつの芸者・小稲(大谷直子の一人二役)。青地はこの、死んでいるような「生きているひと」、生きているような「死んでいるひと」たちに翻弄されまくった挙句、自分も“幽界と顕界”の境い目を越えてしまうのだった。

https://www.cinematoday.jp/news/N0091415より

端的に言えば、教授と放浪者の二人をメインに据えた、いつまでもふわふわと落ち着かない映画といったところのようだ。

本作は境界線の曖昧さを強く感じさせる。
生者と死者がわからなくなっていくように。
正常と異常がわからなくなっていくように。
現実と虚像がわからなくなっていくように。

私たちが生きている世界は、幾重にも重なって出来上がったものであり、私という存在が単体だけということでは決してない。
多くの人間がいるし、なんならそれは死んでいても存在している。そんな項目においてはたとえ死者でも正となる。

悪夢を見るのなら、いっそう酔いしれて堕ちていきたい

本作は非常に示唆に富んだ作品である。
捉えどころのないストーリーは、思わず足を踏み入れてしまった迷宮。
骨組みのストーリーの端的さと対極に位置する不明な数々。
いびつともいえる映像には、思わず舌を巻いてしまうほどの熱量が込められている。
結局のところ、本作の大筋は怪談話という他愛もない物語で完了してしまうわけではあるが、妖艶さと退廃的で今にも足元から崩れ落ちていきそうな世界観には、一見の価値がある。
この世界は悪夢のようであるかもしれないが、酔いしれて引きずり込まれていくのも面白いのかもしれない。


生きていようが死んでいようが一緒ではないか?

本作で強く感じたのはこの脈絡。
人はみな死んでしまえば終わりである。
というのは本当なのか?誰も死んだことがないのに、それがまるで正論かのように語る。
人は誰しも生きているが、時に死んでいるように映るし、人は誰しも死んでしまうが、時には生きているように映る。
つまりは人は生きていようが、死んでいようが一緒なのだ。
永遠に結びつく私という人生。
すべては一直線につながっているし、一人で生きているわけでもない。
様々な要因が重なって、いま私はここにいるのだ。

これらの作品がたどる雰囲気は、かつて日活から解雇を受け映画監督として殺されてしまった鈴木清順の心境も反映されてのことなのだろうか。

また、今年で鈴木清順監督が生誕100周年とのことで、本作『ツィゴイネルワイゼン』が4Kデジタル修復にて公開されるとのこと。
本作はぜひとも映像で、その夢の世界に堕ちていってほしい。


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