いつも笑って距離をとる、と彼女は言った
じゃりじゃり、と歩くたびに鳴る足元を気にしながら、私たちは明治神宮に向かっていました。二人ともふっくらしたコートを着ていたので、時期は1月だったと思います。初詣の時期は過ぎていたので人はまばらでした。
私はこんなことならブーツを履いてくるんじゃなかったと後悔していました。足元がおぼつかず歩いていてぐらぐらしてしまいます。すれ違いに向けられる視線のなんと多いことか。けれどもその本当の理由とは以前書いたことのある、バイト先で出会った美人な同僚と一緒に歩いていたからです。
彼女は真っ白なコートに身を包み、ゆるく巻いた茶色の髪がとても似合っていました。いつものようにふわふわとした癒し系でした。そんな人と原宿駅で待ち合わせたりして、私は自分も一緒にいて大丈夫なのだろうかという複雑な思いを抱いていました。
明治神宮での参拝
その日はまだまだ寒いのにもかかわらず日差しが強く、境内に辿り着くまでには首元のファーのあたりが汗ばんでしまっていました。神社のお参りの仕方がわからない私に対し、彼女は丁寧に作法を教えてくれます。道の真ん中は神様の道だから通ってはいけないこと、鳥居の前でも一礼すること――私にとっては初めての経験でした。
「私ね、けっこうこういうの好きなの」
「だから今日も明治神宮だったんですか?」
「そうそう、パワースポットだから。あとで清正の井戸も行こうね」
この日、何を神様に願ったのかは覚えていません。当時はまだ婚活についても考えていたので、良縁でも祈っていたのかもしれません。けれども、今調べてみたら明治神宮とは縁結びの場所ではありませんでした。そのことを彼女が教えてくれないはずがないので、きっと何か別のことにしたのでしょう。
それよりも印象的に覚えているのは何かを熱心に祈っている彼女の姿です。大体5分くらいだったと思います。まるで何かのドラマに出てきそうな一場面でした。あとで聞いてみるとまだ私の知らない参拝の作法があったらしく、こだわりだすと初心者には敷居が高いんだと感じました。
物おじしない彼女
「おまたせ。じゃあ、清正の井戸に行こうか」
私と彼女は明治神宮内の地図をもらい、道なりに沿って歩き始めました。清正の井戸は水が澄んでいてとても美しかったです。なんでも風水的に意味のある場所らしく、私たち二人以外にも並んでいる人がいました。みんなそばによって写真を撮っていたので、私も写真を撮りました。
その後すぐ帰るのもなんなので、御苑のあたりを散策しました。ある程度深く入ると池があって、景色も綺麗だったので一休みでもしようかということになりました。すると、近くにいた初老の男性が声をかけてきます。その人は大きなカメラを手にしていました。
「参拝してきたの?」
「はい、先ほど」
「そうなんだ。ここ、綺麗でしょ」
「綺麗な景色の場所ですね……」
私はものすごく驚きました。まずこんな場所で知らない人といきなり会話に入ったことがないですし、それに対して全く動じずにニコニコ笑いながら相手をしている彼女の姿に尊敬の意を隠し切れませんでした。
美しい写真の数々
ようやく私が会話には入れたころには、男性と彼女は少し打ち解けたような雰囲気になっていました。男性は何やら遠くを指さします。そこには背の高い木の多い林があって「ほら、あそこにいる」と言われたところを見ると、そこにいたのは大きな鳥でした。黒い影がさっと林によぎっては消えていきます。
「鷹が狩りをしているところを撮りに来ているんだ」
「そうだったんですね」
「今は獲物を見定めてる。あいつにするつもりか?」
「あの、カラスですか?」
「そうだ。あっちもあっちで食われたくねえから必死で抵抗する」
そのとき男性は「あっ!」と言うと大きなカメラを構え、一気に何枚もカシャカシャとシャッターを切りました。とても大きくて重そうです。長く望遠レンズが伸びています。きっとプロ用のものでしょう。
「撮った!捕らえた瞬間だ」
「すごいですね」
「現像するのが楽しみだな。どうせなら今まで撮ったのも見ていくか?」
「はい!」
そう彼女が答えると、男性は近くにあった台にバックから取り出した小さなアルバムのようなものを広げます。そこにはたくさんの飛んでいる鳥の写真があって、男性が普段から被写体として鳥を選んでいることがわかりました。他にも明治神宮内での木々の間に差し込む光の写真などが並んでいます。
一期一会の思い出
「これ綺麗ですね」
私が男性にそう言うと、男性は得意げに笑いました。それは境内の鳥居をバックに白い光が丸く差し込み、周りがうっすらと虹のようになっている写真でした。
「ああ。それは自信作なんだ。滅多に撮れない。いろんな条件が重ならないと無理なんだ」
「これって太陽の光ですか?」
「そう。周りに虹が出てる状態なのはハロって言ってすごく珍しいんだ。そうだ、せっかくだしこの写真を嬢ちゃんたちにやるよ」
私は彼女と顔を見合わせました。
「いいんですか?」
「家に帰ったらネガもあるし、一期一会の思い出として取っておきな」
「ありがとうございます!」
二人の日常の違い
そして私たちはまたじゃりじゃりと砂利道を歩き、小さな喫茶店へと入りました。体力のない私を気遣って彼女が入ろうと誘ってくれたのです。そこでもらった写真を見ます。あのあと男性は「これもおすすめだ」と何枚か写真を追加してくれて、そのどれもが素晴らしいものばかりでした。私は興奮気味に言います。
「私こういう経験今までなかったです!東京って冷たい人ばかりって言われてるけど、そんなこともないんだと思いました」
「こういう場所で私はよく話しかけられるの。男性だけじゃなくて女性にも。親切な人が多いけど、そんな人ばかりじゃないからスピカちゃんも気を付けてね」
「は、はい……」
「一期一会は大切だけどいいものばかりじゃないの」
そう言うと彼女はまぶたを伏せました。くるんとカールした長めのまつげが目元に影になっていて、とても綺麗です。きっと私一人だったなら、あの男性に会っても声もかけられずに素通りしていたでしょう。当たり前のことながら私は彼女がいたから話をしてもらえていたのです。そんなことをつい考えてしまいます。
すると彼女はゆっくりと語り始めました。一期一会で今までどんな人に会い、どんな思いでいたのかを。長く話に付き合わされたり、無理矢理手を引かれたり嫌なこともあったことを。それでもその度にいろんな知識を得てきたのだと話したのです。
私はホットココアを飲みながらその話を聞き、今まで事情も知らず「美人はいいな」といじけたような気持ちを持っていたことがなんだか恥ずかしくなりました。本当は先ほどの男性についても少し構えていたとのことでした。
「いつも笑って距離をとるようにしているんだけど、うまくいかないこともあるから……」
「そうなんですか」
「だから今日はスピカちゃんが一緒で良かった」
彼女は言い、ほとんどの人が見とれるであろう柔らかいふんわりとした笑みを浮かべました。私は「それなら良かったです」と応えました。
笑わないその一瞬
夕食も食べたこともあって帰りの時間は遅くなりました。私は普通に帰ろうとしたのですが、それではダメだと彼女が言って聞きません。時間が遅くなったらいけないからと実際にタクシー代を渡すとまで言ってくるのです。
そのあまりの勢いに私が思わず「どうしたんですか」と声をかけると、彼女ははっとして「昔、嫌なことがあって……」と肩を落としました。タクシー代は仕方なく表面的に受け取ることにして、次に会ったときにデザート代をおごるなどすればいいかと考え直しました。
彼女とは乗り換えの駅で別れました。かたんかたんと人の少ない下り電車が走り出します。たくさん歩いたのですっかり足が疲れていました。座席に深くもたれながら、彼女について思いをはせてみます。
私にとって美人とは自分とはかけ離れた存在であり、極端に言えば人種が違うくらいの認識と言っても過言ではなかったのかもしれません。けれども、夜に嫌なことがあってという言葉からは、常に危険と隣り合わせであるとも伝わってきます。
嫌がっていると思われないように受け入れること、傷つかないように拒絶すること。きっと笑顔というのは彼女にとっての最大の武器であり、そして弱点でもあったのだと思います。
ここまで読んで下さってありがとうございました。
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