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寂しさのかたまり

修士を終え、就職して半年が経ちました。
少し時間と余裕ができたので、研究生活の振り返りを今更上げようと思います。
長くなりますが、後学のためにどなたか読んでください。

◇ ◇ ◇

今日、最後の研究室が終わった。

まだ修了判定は未発表だし、卒業式もあるし、鍵を返したりしにいくから完全な最後というわけではないんだけれど、実験をあのラボですることはもうない。
あれだけ終わらせたくて苦しかったもののはずなのに、解放されるとなると心にぽっかり穴が開いたようだ。なにも手につかなくて落ち着かなくて、だからちょっと3年間の研究生活のことを書いてみようと思う。

最初は好奇心だった。単純に有機化学が好きで、「あ。このテーマ面白そう」と思ったから研究室を選んだ。新しいことをやってみたいという希望を教授に汲んでもらい、新規化合物を作るという難しいテーマをもらった。

一応形だけの前任者はいたものの、日付が進むごとに疑問がたくさん浮かんできた。先輩に確認すると、ノートも碌に取らず、実験をほとんどしない人たらしいということが発覚した。卒論は穴だらけで、参考にしたくても何も得られる情報がなかった。研究開始1か月目にして、私は自分で1から研究を進めていかなければならないことを知った。

追い打ちをかけるように就活がうまくいかなくて、酷い鬱状態になった。死にたくなったけれど、それでも生きていたくて必死に自分がやりたいことを考えた結果、「まだ私は勉強がしたい」という答えに至った。

就活がつらくて、目の前の現実から逃げたくてその選択をしようとしているのではないかと何度も思った。大学院は高度な場所で、自分が太刀打ちできるような能力も無いくせに何を望んでいるのだろうかと思った。

でもその一方で、自分のやりたい気持ちを無視していいのかと悩んだ。
ずっと何がしたいか分からなかった。主体的に自分の未来を選ぶということがよく分からなかった。そんな自分が勉強をしたいという答えを導き出したこと、これは尊重するべきなんじゃないかと思った。

結局悩みに悩んで、私は院進学することにした。大学院試験2週間前に大幅な進路変更になったものの、周囲は賛成してくれた。

沢山準備して大学院に受かった時、自分の居場所を手に入れたようで嬉しかった。研究は大変だったし、周囲のように院生に聞けるような研究じゃなかったから一人で頑張ったけれど、そういう自分が誇らしかった。

夏には、違う分野の学会にも参加した。そこでできた友達とは今でもよく遊ぶ仲になった。卒論発表会では優秀賞も獲得したりして、研究がすごく楽しかった。

そうして院生になった。院生になってテーマが新しくなった。
また前みたいに前任者は形だけで、1から自分でやっていくことになった。
朝は8時、夜は10時まで残って研究にのめり込んだ。4年生だった頃とは違い、自分の権限で機器を使うことができるようになり研究の幅も専門性もぐっと広がった。

そういう私に期待したのか勘違いしたのか知らないけれど、教授が少しおかしな行動をするようになった。夜、後輩の携帯を使って私に電話をかけてきたり、説教するとか言うようになった。もともとお酒にだらしない人だったけれど、ストレスに弱い私はそれを受け流すことができなくてすぐにご飯が食べられなくなった。

6月くらいから研究の結果が出始めて、研究以外の日常生活が少しも残らないような日々が続いた。土日も研究室で休みが全くなくて、そんな時恋人と別れてメンタルの状態が少しおかしくなった。

ふとインスタグラムを見ると、就職した友達がきれいな服を着て楽しそうにしているのを知ってしまってなんとなく自分を見てしまった。元々化粧や服が好きで、学部生の時のバイト代は全部それにまわっていたのに、今は3着くらいの服を着まわしている。旅行どころかデパートに行くことすらできないし、友達と遊ぶこともできない。趣味がなくなって、好きもなくなって、実験だけをする自分と、お金もあって充実している他人を比べて、胸がぎゅっとなった。

それでも現実は止まってくれなくて、自分の実力以上の結果が出てしまったからそれに追いつくために必死だった。教授に毎日怒られて、後輩とのいざこざに巻き込まれて、消耗していたけれど休むことができなかった。

そうして自分を少しずつ削りながら過ごしていた。だけどやっぱり限界だったみたいで、秋になり、冬になり、学会を3つこなしたある日、突然研究が嫌になった。大学を辞めて、どこか遠くへ行ってしまいたいと思うようになった。

希死概念が浮かんだあたりで、自分は冷静じゃないことに気づいた。そして、「研究を辞めたいわけでも死にたいわけでもなく、自分にはいま休息が必要なのだ」ということが分かった。でもすぐに「じゃあ休みます」とはなれなかった。

研究を止めてしまうことが怖かった。頑張れない自分が認められなかった。だましだまし続けていこうとしたけれど、膝から崩れ落ちる感覚を覚えてようやく研究室を休むことを決めた。

休暇の最中は薬の副作用もあってただひたすらに寝た。どうしようもなさと情けなさでどこへも行くことができなかった。就職活動に影響があると思って、まだ本調子でないまま研究室にすぐに復帰した。

復帰して休んでいる罪悪感から解放されたものの、今度は動けない罪悪感に悩まされるようになった。亀よりも遅いペースで研究を進めるなか、コロナのせいで緊急事態宣言が発令された。

なにもできないことを許される中で就活を進め、運良く3つ内定を貰った。それ以外はただひたすら寝て体力を温存した。ようやく少し動けるようになった時、また研究を進められるようになった。

最初は幸せだったはずなのに、徐々にバランスが崩れてまた研究をする気持ちがなくなっていった。

それでももう休むことは許されなかった。
修士論文を書けなければ私は修了できない。それだけは嫌だった。
何のために高い学費をやりくりしてここにいるのか。
私はやりたいことがあった。それを叶えるためにここで立ち止まることは許されなかった。

なにより、私はこれから自分の力で生きていかなければならない。
こんなところで死ぬわけにはいかない。

そうこうしているうちに今度はご飯が食べられなくなった。
夜、眠れなくなった。病院の主治医に行って薬を飲んで無理やり寝た。
大学にいる間、人と一緒にいる間だけご飯を食べた。
なんの味もしない。砂をかむような感覚で少しもおいしくない。
体重ががくっと減った。
事務の人に会うたび痩せていくと心配されたけれどもどうしようもできなかった。

研究も生活もどん詰まり。そんな時だ、今の彼氏と付き合ったのは。

彼氏は論文をたくさん出していて、学会で賞を貰うくらい実力もあって、
でも私は特に嫉妬心を抱かなかった。

生きていくことがすべてだったから。
研究を全うして形にして修了していくことを目標にしていたから。

彼氏と会っている時はご飯が食べられるようになった。
相変わらず眠れなかったけれど、少し生きる力が戻ってきた。

なんやかんやで続いて、1月。
修士論文も大詰めという時期は大変だった。
これまでの自分の結果をまとめるという作業はここまで人を消耗させるのかという気持ちになった。

でも、これで最後。これが終わればもう終わりだから。
その一心で身体を動かした。

無事に修了判定を貰った時は安心して一晩寝こんだ。

そして、3月にはいってから5日間。
次に私のテーマを引き継ぐ後輩に実験を教えて研究室を後にした。

どうしてだろうか。
あれだけ嫌だった研究生活に終わりが来ることを寂しく思った。終わらせたかったはずのものがいざ本当に終わってしまうとなると本気で嫌だと思った。何故なんだろう。どうして、どうして。

私が本当に終わらせたかったものが何なのかは未だに分からない。
あれだけ寂しい思いをしてももう研究室に戻りたいとは思わない。
でも、今は分からなくていいと思う。
研究室にいた3年間は私の全てだった。
傷ついてぼろぼろになってたった一本だけ掲載された論文は私の財産だし、今後もどこかでもしかしたら役に立つのかもしれない。

自分にとって研究とは、と聞かれるとすごく難しい。
痛くて辛くてそれでも求めてしまう。そんな中毒みたいなものかもしれない。
はたまた、自分のメンタルにとってシンプルな毒になるそんなものなのかもしれない。
分からないから、また私は就職で研究職を選んで病んでしまった。
研究が合わないのか、環境が合わないのかわからない。
でも自分のアイデアを形にしていくことが好きな私は、結局また同じ道を選ぶんだろう。
もはや業のようなものだ。

研究はいばらの道だ。
気力も実力も続く人はまれで、たいていは気力を吸い取られてしまう。
それでも続けてしまう自分は何なんだろう。
いつかこのループから抜け出せるのだろうか。わからない。
ただ言えることは、研究室を去る時は寂しかった。
最後に研究室の写真を撮って帰ったけれど、あれは一生消さないつもりだ。

いつかこの経験が自らの血肉になることを願って。

【追記】
「自分にとって研究とは?」の答えが出たので、類似記事を載せます。
はちゃめちゃで苦しくて、ぜんぶ壊してやりたい、のに、創作は止められない。|霧島美桜 (note.com)

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