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「育児」と「タイパ・コスパ主義」の相性が悪すぎる

「少子化は国家の危機」と言いっぱなしにする人がいる。「次元の異なる対策が必要」という人もいる。
 
テレビをつければ、政治家の先生方による、過去の言った・言わないを巡る異次元の議論が目に入ってくる。
 
「この愚か者めが」(注:子ども手当をめぐって自民党・丸川議員が過去に飛ばしたヤジ)なんて口汚い言葉は使わないが、「ミヒャエル・エンデの『モモ』読め。2時間で読めるから」くらいは、言いたくなる。
 
少子化は先進国の共通の現象だが、何が少子化を加速させているのか、SFの世界がボンヤリと示してくれているからだ。
 

■『モモ』ってどんな話?

『モモ』を読んだことがない、もう内容を忘れてしまった、という人のために短くまとめると(本来は『モモ』の趣旨に沿わないが)主人公は浮浪児の少女、モモ。廃墟となった円形劇場で暮らしている。
 
モモの特技は人の話をじっくり聞くこと。
 
大人も子どもも、周囲から変わり者扱いされている人も、モモに話を聞いてもらうと、気持ちが上向いて、アイディアがわきだし、自分自身のことを好きになっていく。

■灰色の「時間泥棒」が「ムダ」とレッテルを貼った時間

ところが、穏やかな日常に「灰色の男」たちがしのびよる。
 
その時間でもっと金を稼げるだろ」「ムダを省け」みたいなことをささやかれると、あっという間に人は洗脳され、「時間をムダにしないこと」にエネルギーを注ぐようになる。「コスパ命」「合理化こそ正義」を体現しているはずなのに、人生の目的が時短になると、いつも時間に追われるようになる。
 
もっと早く。もっとムダなく。もっと大きなビルを。もっと多く稼いで。もっと強く。もっと多く。
 
そうした考え方とともに人々の不機嫌が伝染病のように広がると、『モモ』の世界で邪魔になってしまった対象がいる。
 
その筆頭は、子どもと老人だ。
 
なぜなら、ケアに時間がかかり、思い通りに動かず、すぐに稼ぐことができないからだ。
 
結果として『モモ』の社会に「灰色の男」が来てから、“ムダ”とされ価値を失った時間は何か。
 
それは、子どもとじっくり向き合い、愛する人と語らい、大切な人を介護したり看病したりする時間だ。

■時間泥棒出現後、子どもたちはどうなったか?

その後、子どもは時間の合理化のために「役に立つ」習いごとを詰め込まれるようになり、まとめてビルの中に閉じ込められる。子を育てることは親にとって「投資」となり、遊び場からは子どもが消える。
 
なんのためか。
 
時間節約とコスパと将来への投資のためである。つまりは、将来、役に立つ人間を再生産するためである。
 
日常の余暇をなくした『モモ』の世界の子どもはだんだん不機嫌になり、遊び心を忘れていく。

■「もっと賢く」「もっと稼げ」の先にあるもの

―さて、ここからは、私たちが暮らす世界の話にうつる。
 
もっと賢く。もっと強く。もっと早く。育児や介護は誰かにまかせてリスキリングをし(事実、まかせないとリスキリングは難しいケースもある)、もっと稼げる能力を身につけろ稼げるかどうかはあなたの努力次第
 
そんなふうに喧伝するメディアもある。
 
では、子どもとじっくり向き合うのは誰か? 誰が腰を据えて子の話を聞くのだろうか。

■親の「稼ぐ」をサポートする職場の景色

現在、共働き化がすすみ、生活費や教育費や老後資金を稼ぐために、多くの親は誰かに子どもを預けている。私も含め、現代社会ではそうしないと暮らしていけないからだ。「自己実現のために働いている」と言える人は、少数派だと思われる。
 
そして、子どもの預け先である、保育施設や学童に視点を移してみる。
 
保育士も学童職員もみんな忙しい。おそらく多くの施設はギリギリの人員で現場をまわしている。
 
子どもたちの情緒に大きな影響を持つ仕事だが、そもそも彼ら・彼女らは、正当な手当をもらっているだろうか。社会から十分にリスペクトされているだろうか。
 
民間の保育園を運営する会社の利益が出た場合、保育士ではなく株主に還元(岩波書店『世界 2022年7月号』の記事)されるケースも少なくないという。「子どものケアは、もともと無料だった家庭内の仕事」という眼差しを向ける人もゼロではないだろう。
 
そして、手元のスマホのネットニュースに目を向ける。育児を通じて奪われるものに強いスポットライトを照射し、不安を煽る見出しがクリック欲をそそる。まるで時間泥棒のようだ。
 
そのような状況で、無償で育児を担う親や、子どものケアや教育にかかわる仕事をしている人は、どうやって自尊心や誇りを保つのだろうか。どうして不安にならずにいられようか。
 

■「昔のほうがよかった」なんてことは決してない

と、ここまで書くときっと、必ずこんなことを言う人がいる。
 
昔のように、専業主婦全盛時代に戻ればいいのだ。あの頃は時間がたっぷりあったんだ。母親が愛情をもって育てていたのだから」。
 
現在の状況は、高度経済成長期と同時に進行した、人類の歴史でたぐいまれな専業主婦全盛時代の「結果」である。
 
国の成長のため企業は忠実な兵隊を求め、産業を発展させ、公共工事を増やし、ハコモノを乱立させ、新興産業が農業・漁業・酪農・林業を淘汰し、自然豊かな農村からヒトが流出し、地方の山は荒れた。
 
家族にさまざまな役割が集約され、人と人とのつながりは薄れ、過去の忠実な「元企業戦士」の中には、企業にすべてを捧げてしまったがゆえに、今、地域にも家庭にも居場所がない人がいる。
 
孤独からか公の場所で負の感情を噴射する「元企業戦士」もいる。そんな大人たちの背中を見て育ったいわゆる「育児適齢期」の世代は、家庭を持った先に明るい未来を抱けただろうか。
 
働き方や家庭のあり方を硬直させ、教育や暮らしを通じて「もっと早く・強く・多く」以外の価値観を醸成できなかった政治の責任はとてつもなく重い。彼らの小手先の政策だけで人の意志を動かすことは、きっと不可能だ。そもそも国のために人を生む人などいない。
 
自分たちと対局にいる相手の話を「聞く力」を忘れた政治家にはぜひ、彼らにとってはまったく役にたたない時間泥棒のような内容であろう『モモ』を読んで、国民の時間や余裕を奪う漠然としたものについて、じっくりと考えてほしい。『モモ』の作者は、批評を嫌ったというので、決して評論家にはならず、答えのない問いをめぐって逡巡して欲しい。
 
2時間もあれば読めるから。


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