SG的おススメ本紹介② 洗脳原論
おススメ本紹介第2回の今回は、認知科学者である苫米地英人氏の著作、『洗脳原論』を紹介する。
認知科学者のほか多彩な肩書で活躍し、200冊以上の本を執筆している苫米地氏の処女作であり、2000年発売でありながら、根強い人気を誇る不朽の名作である。
本書において苫米地氏は、自らの学問的バックグラウンドと、それを活かしてオウム真理教信者の脱洗脳を行った経験をもとに、洗脳と脱洗脳の解説を試みている。
本書の執筆にあたっては、21世紀の日本が洗脳に対して脆弱なままでいることのリスクと、脱洗脳手法を公開するリスクを天秤にかけ、脱洗脳手法の公開を選んだ苫米地氏の覚悟がある。実際のオウム信者の脱洗脳プロセスがある程度具体的に紹介されており非常に読み応えのある一冊となっている。
洗脳と脱洗脳というトピックに絞ると、ここまでまとまっている本はあまりないと思われ、そういった内容に興味がある人には必読書だといえる。他方、このような内容に興味がない人ほど、無自覚に洗脳されるリスクがあるともいえるため、そのような人も是非読むべきだと思う。実際本書の中で、人間は本質的に誰でも洗脳から逃れられないのだと苫米地氏は主張している。
その意味で、心理学の知識がある人の方が理解しやすいと思われるものの、素人の私でもある程度理解できるほど平易に書かれている点も本書の魅力だろう。注に多数の参考文献が載っており、ある程度専門書的様相も示す一方で、素人にも分かるように用語の丁寧な定義や説明がしっかりとなされているのだ。
ここから本書の内容を、あくまで私の解釈で、私が重要だと思ったところを簡単に述べてみる。もし興味が湧いたら是非ご自身で読んでみていただきたい。私はこの分野に関して全く専門ではなく、間違って解釈している可能性が十分あることは、あらかじめご了承下さい。
洗脳とは
洗脳は、厳密な概念ではなく、ブレインウォッシングやマインドコントロールといった概念を含んでいる。より広い範囲の現象について扱うため、また日本語の運用上には強いイメージをもたらす用語であることから、本書で苫米地氏は洗脳という用語を使っている。
また、苫米地氏は洗脳は本人の利益でなく、洗脳者の利益のために制御しようとする試みであることを強調する発言もしている。つまり介入的であっても、本人の利益のためにある教育は洗脳とは違うということだ。
ヨーガなどによって引き起こされ得る変性意識状態において、至福の神秘体験をすることで、洗脳の沼にハマっていくことがあるようだ。リアルな仮想現実をコントロールすることで洗脳がより深くなっていく。
洗脳の空間が現実よりも臨場感の高いものとして存在してくる。その空間を体験している状態であるアンカーと、その空間に引き戻すためのキーとなるトリガーが作られると、そしていつもそのトリガーが刺激されていれば、永遠に洗脳から醒められないことになる。
脱洗脳の手法
本書は、第2章が「脱洗脳のプロセス」、第3章が「脱洗脳とディベートの関係」、第4章が「脱洗脳のケーススタディ」となっている。どのように脱洗脳を行うかがある程度まで詳細に、しかし悪用されない程度まで、といった感じに記されているように思える。
苫米地氏は学生時代にアメリカでディベートに熱心に取り組んでいたということで、日本でオウムの上祐氏にディベートを教えていたこともあったらしい。ディベートの陥りがちな相対主義の問題点が解説されていたところは個人的に興味深かった。
詳しくは本書を読んでほしいところだが、一つ特に取り上げるとしたら、神秘体験についてだろう。神秘体験の存在によって、信者にとってオウムの教義がより信じやすくなってしまうことがあったが、苫米地氏は脱洗脳の中で、逆に自分が神秘体験を引き起こしてみせたようだ。
神秘体験は脱洗脳の一過程に過ぎないが、これは純粋にすごいと思う。人間の脳は一度体験したことは、再度体験することは容易だそうだが、それにしてもなかなかすごい手法を用いているように見える。
苫米地氏によると、テクニックそのものはいわゆる変性意識状態の生成であり、技術的に可能だが、それよりも一発勝負の場でそれができるかどうかが腕の見せ所のようだ。場数をこなし、ファーストインプレッションを鍛え上げることがポイントのようだ。山手線で隣の人を変性意識化させる練習をしていたというのは面白い。
なお脱洗脳は、このあとに、アンカーの除去という重要な作業があるといい、これを忘れると、いつでも洗脳状態に逆戻りしてしまうというから気が抜けない。脱洗脳も一筋縄ではいかず、そこには多くのプロセスがあるようだ。
認知科学者としての苫米地氏 哲学か宗教か
本書では、カーネギーメロン大学で博士号を取得した苫米地氏のバックグラウンドやその観点でとらえた洗脳についての考え方も広く取り上げられている。
苫米地氏の博士号は、哲学科で取得したものだが、博士論文は計算機科学と応用数理の学際領域におけるものであったそうだ。哲学はアメリカでは理系よりの学問であり、特に現代分析哲学は数式で表現できる。
苫米地氏はオウム事件以前は、21世紀には宗教よりも哲学を極めることが人々を苦しみから救うと考えていたようだ。宗教の開祖の時代から多くの年月が経過する中、当時の教えを引き継ぐ宗教と、日々発展を続ける哲学であれば、哲学が優れているだろうとの考えだったようだ。
しかし、オウムの脱洗脳後の苫米地氏はこのように考えるようだ。
仏教のような伝統宗教の怠慢が、オカルト的な占い、風水、超能力、心霊現象のブームなどがはびこる現状を生み出しており、日本人の精神がそういったものに脆弱であることを苫米地氏は危惧している。真の仏智のようなものの方が、そうしたものよりよほどしっかりとした規範があり、精神的な軸となり得る可能性があるということだ。
哲学を研究してきた科学者として、本質的には宗教より哲学だという思いを持ちつつも、宗教の果たすべき社会的役割がもっと果たされるべきだという意見が本書で述べられている。本書の出版から20年以上経過した今、未だに占いや心霊体験、オカルトな量子論もどきがはびこる現状を鑑みれば、本書の問題提起は今も考えられるべきものだろう。
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