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もしもゴッホが桜を見たら

桜が満開だ。家のそばであちら、こちらに。並木ではないけれどたった一本でもこんなに心が暖かくなるのは何故だろう。自然の息吹に心を動かされるようになったのはいつからだろう。

近ごろSNSに写真をあげることは少なくなった。誰かと共有したり、誰かに見せたりしないでも、心の内側から歓びが沸きあがってくるのはうれしい。

もちろん誰かと共有する幸せも大切だけど、"ヒト"から離れて自分で自分を癒す術があるということは、良い人生を送るために必要だと、そういうことにもっと時間をかけたいと考えるようになった。嫌なことや上手くいかないことが続いてしまったときにも、それらを忘れて逃げ込める場所。

これを書きながらなぜだか画家・ゴッホのことが思い出される。

日本人も大好きなゴッホは今でこそ誰もが知る画家だが、生前は鳴かず飛ばずだった。画商である弟のテオにお金をせびりながら暮らしていた。決して人との交流が無かったわけではないが、変わり者扱いされることも多く、常に孤独と背中合わせ。後年は精神を病み、わずか37歳でその生涯を終えた。

そんな彼が何よりも愛したモチーフは身の回りの「自然」だった。自然をモチーフとするだけなら誰にでも出来ることだが、ゴッホはあからさまに皆が感嘆しそうな綺麗な風景を、誰かとの約束事かのように描き止めているのではない。むしろそこにあるのが当たり前で素通りする人が多いような、"そのへん"の景色にも、興奮し目を輝かせ、その唯一無二のタッチと色使いで、生き生きと描きだした。精神病院に入り浸りになってからも、病院の庭を繰り返し描いていたという。きっとそれが、彼の何にも代えがたい、自分で自分を癒す術だったんだろう。

フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のプロヴァンスの田舎道》 1890年 クレラー=ミュラー美術館蔵 ⒸKröller-Müller Museum,Otterlo,The Netherlands
フィンセント・ファン・ゴッホ 《サン=レミの療養院の庭》 1889年 クレラー=ミュラー美術館蔵 ⒸKröller-Müller Museum,Otterlo,The Netherlands
フィンセント・ファン・ゴッホ 《麦畑》 1888年 P. & N. デ・ブール財団


絵は作者の心を反映している。画家自身がその風景に本当に心から感動していなければ、生み出せない絵だ。この絵たちから彼の性格を想像し言葉にするとしたら、「気が触れている」とか「奇妙」とかではない、自分の感情にひどく素直で、丁寧で、だけど激しく、美しい。そういう言葉が出てくる。


日本にも心酔していたゴッホ。ふと、桜の絵は描いたことがあるのだろうか、と探してみたが、ネットでは見つけることができなかった。

もし当時彼のそばに桜の木があったなら、どのように描いていたのだろう。想像したら胸が高鳴った。

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